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旧・音気楽ブログ 社長ブログ

過剰の末路

過剰包装・挨拶・おもてなし・インフォメイション・装備・・・過剰子育て・過剰介護なんてえのもあるかな。とにかく今の時代、何でもかんでも過剰!。ここまでやんなくたっていいじゃないか、必要ないことが多すぎる。その必要のないことをやったり、装備したりしてお金がかさむ。ノーマル仕様だとこんなに安いのに、さして必要のないものをくっつけていくと、とんでもない値段になっていったりする。人為的サービスにしても基本いらないことばっかりを上乗せして、料金に乗せる。「オプション」なんていう英語に騙されて、何の抵抗もなく金を払うばかばかしさ。こんなところにも日本人の外国かぶれ、外国語に弱い体質が露呈する。

車を買い替えた。グレードの高い車種がモデルチェンジを控え、現行車が安く買えるというので、それを注文した。同じメーカーの同じような車種だったので装備などあまり確かめもせず、納車時に取扱いの説明を聞いた。「うーーーん」。何やら一回ではよく分からん装備がたくさんついている。走るための基本だけをとにかく理解して、あとはおいおい説明書など見ながらと思いつつ、もう1か月もたってしまった。その他の装備は別に触らんでも何の支障もない。ハンドル周りにも何やら沢山ボタンやレバーがついている。未だに何にも活用していない。そんなものがついているために恐らくそうとな金額の上乗せになっているのであろうことは容易に理解できる。

物の本質から外れて、やたら飾り立てる。そういう方法でしかもう金儲けもできないし、他との差別化も難しいのであろう。うちのはここが違います!これはうちだけです。などと言いながら、どうでもいいようなことを誇張してアピールする。何か選挙演説みたいだなー・・・。

そうやって過剰を繰り返し、過剰の上に過剰を重ねる。行きつく先は「破綻」「破滅」である。やめようと思ってももうどうにも止まらない!(森山かよこさんが50年前に歌っていた歌が本当になった?)

デザインとは

最近、っていつのことだよ。いつからが最近なのかモー分からん。デザインという言葉の響きにある意味敬意を表していたのだが、何が良いデザインなのか、もう分からん。良いとか悪いとかの基準もどんどん変わっていくのであって、変わらなければいけないので・・・しかし例えばデッサンとか基準とか基本とかは変わんねえよなー。
なんかそういったものまでが、どんどん変わっていってしまっているように思える。音楽の世界で言えば、ピアノを習うときの基本の教本。バイエルはちょっと置いておいて(なぜなら、ドイツの伝統的教本で在りながら、ドイツではもはや使われていない)ハノンとかツェルニーとかソナチネとかが定番であったのですが、今やシーラカンス扱いされている傾向にある。欠点を改良して新しいメソッドを作り上げていくことは大変良いことです。それならば充分いいんだけど、なんかいきなり指の練習もしないで勝手に弾かせる?のはいかがなものでしょう。準備体操しないでプールに飛び込むようなもんだ。思ったままに表現するのが芸術だーーーー!みたいな先生も増えている。

かの有名なピカソも初めは?しっかりしたデッサンをきっちりとこなしていたし、錦織選手だって地道な基礎練に相当な時間を費やしているはずです。従って思いつきでポソッと書いたいたずら書きが素晴らしいデザインで!とか何気なく鼻歌を歌ったら歌手の才能があるとか、ポンとボールをけってみたらサッカーの選手に向いているとか・・・・。まんざらではないかもしれんが、即才能・天才なんてえことにはならない。
が、今の時代はそういうことが平気でまかり通り、評価されて大金をつかんだりするだよね!思いつきをITがAIがしっかり形に仕上げてくれる。みーんな努力しないで天才になれる時代になったー!  バンザーーーーイ!。じみちな努力は報われない・・・・

「群れ」る

日本人独特の「群れる」文化は、世界に理解されるのだろうか?右向け右、左向け左!。軍隊以外に、子供たちにこのような教育を行っている国を知らない。
サー皆さん、ご一緒に・・・。幼稚園からすでに統制されながら成長する。従って号令がないと動けなくなる。自分で判断して自主的に行動することができなくなる。正確でおせっかいなインフォーメーションがないと何もできない、何処へも行けない。
先日、小学校の運動会がありました。外部からもたくさんの方がお見えになるので、特にトイレの場所についての案内版に神経を使ったつもり。矢印を随所に設け目的地まで間違いなく行ける!と思っていたのはこちら側の感覚。利用者からの苦情は、その矢印の間隔が長すぎて、途中で次の矢印を見失った・・・というもの。そうなのかー・・・・。

分からんかったら、その辺の人もしくは生徒に聞けよ!いや、そんなこと聞きたくない。もちろん自分で探すなんてとんでもない。全てが過剰な御ぜん立てに慣れきっているので、ほんのちょっと「ずれ」ただけで何にもできなくなっている。
同じ目的を持った同じ方向の人がいればいいんです。ついていく、流れていく。そして、こういう所に「群れる」ことの欠陥がでる。あの悲惨な大戦の時も、誤った情報でそれに群れたことで、たくさんの人が命を落とした。あっちに逃げろ―!と言われて何も考えずにそちらに向かって焼け死んだ。

外国の方の意見・考え方が正しいなんていうつもりはない。しかし、外人から見てこの日本人のいろんな「奇異」に見える行動や思考。どのように映って見えるのか、なぜそのような行動をとるのか思考をするのかなど、客観的に見つめてみようではあーりませんか(安倍さんの得意な口調)。

私個人の見解。やっぱ、おかしいでしょ!

ほんの・・・

ご無沙汰いたします。仕事とPTA活動と日々の体の痛み対策に追われております。追われるということはあまり良いことではないですね。それこそ余裕がない。気配りができないし優しくなれない。
昨日は息子の通う小学校の運動会でした。お天気にも恵まれさほど暑くもなく無事に終了。私、PTAの会長として、朝はよから出勤?。一日中見回り役でへとへと。閉会式の挨拶まで気が抜けない状態で、本当に疲れました。でも、子供たちの素晴らしい頑張りに心底感動を覚え、充実した1日を送ることができました。校内を回っておりますと、ほとんどの子供たちが挨拶をしてくれます。「おはようございます!」「こんにちは!」と、気持ちの良い返事が返ってきます。そこにはその3倍くらいの大人がいたのですが、ほとんどの大人が無言です。ちょこっと頭を下げたり、「ども」などと返事をしたり・・・。中にはわざと知らんぷりをしたりする人もいます。「かんけーねー」ですかね・・・。こういう大人たちが、偉そうに子供たちには「きちんと挨拶をしましょう」とか「返事をちゃんとしなさい」などと言っているわけです。
ほんの一言、言えばそこから気持ちが開く。無限に広がる。あるいはほんのちょっとの気遣いで気持ちがつながる。子供たちは恐らく、日々の学校生活の中で、それを実践しているのだと思います。でなければ、750名もいる学校という社会に中での生活は成り立ちません。

子どもたちから大いに学ばせて頂いた、有意義な一日でした。ありがとうございます。




やたらと・・・

ご無沙汰いたします。私、今どえらい目にあっており、ブログを更新する気力・体力が喪失しておりました。どしたのー?あのね、PTAの会長さんになっちゃったんです。年間7~8回公的な場所であいさつをしてくれれば・・・という説明を信じたばっかりに・・・。皆さんその「あいさつ」が苦手で、会長が決まらないんです、もう3ヶ月も・・・と泣きつかれて。引き受けたはいいものの、実際引き継いでみたらどうよ!。あれもこれも何もかも次から次に押し寄せる業務。入学式の来賓にお茶をお出しする・・・なんて―のもあったりして、もう唖然。当然のことながら、周りは99%いや100%女性、お母さん方。私の娘のような年齢の方が多く、何とも異様な雰囲気。彼女たちもある意味やりにくいだろうなーとか思う。最初のころは女性の更衣室に突然放り込まれたような気になって、うれしいやらうれしくないやら・・・。呼吸困難になった。
連絡を取り合う手段として、ラインなるものもやるはめになった。これがしょっちゅう「ピンポラポン」とうるさい。なるから読まざるを得ない。読んでみると、どうでもいいようなこが多くて、やはり女性というのは何でもかんでも「どおしよー」「そうよねー」みたいなことになるんだね。文の締めくくりにはなんかのキャラが「ごめんなさい」とか「ありがとーーー」みたいなことを言って深々とお辞儀をしている。

スマホの普及により、連絡の手段がほとんどこのメールによるものとなった。文字で相手に伝えるため、言いにくいことなんかも結構ダイレクトに書けちゃったりして勝手が良いのでしょうね。そして最後に忘れちゃいけない「ごめんなさーい」「ありがとーーー」での締めくくり。この二つを言っておけば、何を言ってもだいたいほとんどOKになっちゃうんですね。

メールに限らず、実際のレアな人間関係において、最近感じるのはやたらこの「ごめんなさー」と「ありがとーーー」が多いと感じます。なんでもないことにすぐに「ごめんなさーーーい」。ちょっとしたことにこれまたすぐに「ありがとーーー」。挨拶をすることはとても良いことだと思うのですが、話や事が進まない、核心に触れないうちに「あり・・・」「ごめん・・・」が多すぎるし速すぎます。さっさと予防線を張っちゃう感じ。相手の侵入を手前の手前で阻止しちゃう感じがする。本心からの謝罪や感謝とは思えません。事なかれ主義?

それが最近のしょせいじゅつなのかもしれませんねーーーーー。いろいろ言って「ごめんなさーい」。聞いてくれて「ありがとーーーーー」。

後だしじゃんけん

卑怯だよなー、ずるいよなー・・・。日本人ってきっと諸外国から言わせるとこの「後出しじゃんけん」民族に見えるんだろうなー。

私、いっつも感じるんですけど、トランプさんって「先だしじゃんけん」の人なので、当然相手に手の内を見せてしまっているわけで、分かりやすく攻撃しやすい存在であります。もちろんバカではないのでそれが彼の作戦なんだろうと考えます。日常的に周りにもそういう方がいらっしゃって、必ず先真っ先に自分の主張、要求を出す。受けた方はえ、え、え、ぎょぎょぎょ、となることが多いんです。先制攻撃を受けるとひるむ。仕方ないのである意味妥協案を出す。つまり一歩引く事になる。そうやって交渉事が不利になっていくのである。

日本の++首相は後出しの典型でらっしゃる。相手の出方を見てからこちらの主張をおずおずと出す。じゃんけんの場合はその方が勝ちとなるわけですが、結果はいかんや、ズルしたことがたたり、譲歩・妥協ということになる。

世の中の大人社会に蔓延しているこの「後出し」。これを改めないと本当に置いて行かれちゃうよ。もう手遅れかもしれないけど・・・。

児童虐待

日曜討論とかいう番組で、この「児童虐待」が取り上げられてどう対処するべきかが討論されておりました。厚生労働省のお偉いさん・元児童相談所所長・虐待児の診察医師・子供を守るNPO法人代表・児童虐待専門弁護士など、専門家が顔をそろえてあーでもないこーでもない。其々の立場からのそれぞれの位置からの発言で、どの意見ももっともらしく頼もしい限りでした。これだけいろいろな立場でいろいろな専門家が関わっているのだからもう安心?

火事が起こりました。見つけた人が通報しました。消防車が来ました。警察も来ました。放水!・・・。あれ、水はどうした?。ふと横を見ると、消防の人、警察の人、家の人、通報した人、見物に来た人などが話し合いをしています。何時何分にどこからどのように火が出て中に何人いるのか原因はなんなのか・・・。

交通事故が発生しました。血を流してけがにんが倒れています。見ていた人が通報しました。パトカーや救急車が来ました。それ、救出!・・・。あれ、担架はどうした?現場の周りには警察官、救急隊、加害者、目撃者、やじ馬などが話し合いをしています。何時何分でどの車がどの人をどうやって信号は赤で青で車のスピードはどのくらいで・・・。

話し合いは大事です。とてもとても大事なことです。でもね、今、即やらなければいけないことは何ですか?状況検分や事情聴取ではないでしょ!そこんとこが根本的に間違っているんです。そんなことしているうちに、火は燃え広がりけが人は死んでしまうんです。対策とかの話し合いは後ですればいいんです。

アメリカでは虐待の通報があると即、警官が駆けつけ、親に向かって拳銃を突きつけて「ホールドアップ」です。まず、子供の保護です。安全を確保することが最優先です。確かに誤解があったりもします。行きすぎやり過ぎの行為になる可能性も大です。しかしまずは安全の確保です。そのタイミングを逃すと、命に係わることになりかねない。

日本人には緊急性に対する危機感が欠如しています。なあなあ、まあまあの能天気民族ですから、救われるはずの事がみーんな手遅れになる。そして悲痛な表情をして「アーあの時もう少し・・・だったら・・・」と頭を垂れる。自分がかわいい民族ですから、こりゃー救われんわなー!

唯一NPO法人の代表の方、元警察官というだけあってさすがに性根が座っておりました。彼の「即、保護。やるしかない」という発言。支持します。その意見に対し、他の連中は相も変わらず最後まで理屈をこいていましたね。その間にも多くの子供たちが虐待にあっている。命の危機にさらされているんだよ!

4回転が、162㌔がそんなに偉いのか?

技術革新も目覚ましいが、スポーツの世界も記録がどんどん更新されていく。記録は破られるためにある!と、誰かが言っていたような気がするが、とにかく昨日の新記録は今日破られるための踏み台でしかない。今日の新記録はまた明日・・・のでしょう。俗にいうアスリートさんたちは、なにが目標?なのでしょうか。破ること、勝つことによって賞賛され、莫大な賞金を手にする。半端ないトレーニングを積み重ねた結果を評価されるるのは当然の事である、のではありますが、なんか破ることだけにその目的があるのだとすると、スポーツの意義・真髄ってなんなんだろうと考えさせられます。

スポーツとは「戦い」なのか。勝者と敗者を区別するためのものなのか。新記録を生み出すためのあくなき挑戦が続いていくことは間違いないわけで、その行きつく先には何があるのか・・・。この世に成立しているものが全て「戦い」の対象なのか。あらゆることを勝ち負けで区切らなければおさまらないのか。

春めいてきて、やがて小学校の運動会の季節がやってくる。赤勝て白勝て!どっちも頑張れ―!。そこでも一等二等・・・となるわけです。速い子もいれば遅い子もいる。だから一等もあればビリもある。そんなのしょうがないじゃん。なんか抵抗がある。でもどうしたらいいのか分からない。誰か教えて・・・。


利己主義=自己主義?

自分に害の及ばないことだとすぐに許す、忘れる。毎日毎日、凶悪陰湿な犯罪が起こる。ウソやごまかしがで世の中が埋め尽くされる。あそこで詐欺があった、殺人があった、虐待があった、事故があった・・・云々。全て自分に降りかかってこないことであれば、人は許し忘れていくのである。3日前の出来事などすでに風化。昨日の事すら記憶に古い。常に新しモノ、コトを追い求めているわけで、過ぎ去ったことなどにかまけていられない。なぜそれほどまでに見逃してはいけないことに無関心になってしまったのであろうか。
利己主義という言い方があった。自分の利益になることだけを考えて行動する事。もちろん批判の対象になる事に違いないが、考え方や行動がハッキリ見えている分、とても分かりやすかったように思う。
最近の傾向は、明確に外に主張することもなく、ただ自分を強引に発信していく一方的「自己主義」。人と対面することなく言葉を使わないで自分を発信していく。そうしないと自分を見失ってしまうような恐怖感があるのだろう。

もっと対話をしよう。それが人間である最低の最大の証であるのだから。

自分のふり見てわがふり直せ

国会中継見てます。高そうな立派なスーツを着て、素敵なネクタイをして、与党の議員さん大臣さん。野党の議員さんは多少質が落ちた感じに見えるのはなぜでしょう。質疑が始まる前、緊張の面持ちの方もいれば(いつ自分がやり玉に合うのか・・・)、すっかりくつろいだ様子で談笑している方もいる。特にアベさんとアソウさんはいつも余裕顔。にこにこニタニタしている場面が映ってるぞ、お前ら。昨晩の料亭のうまかった物の話なのか、お忍びで出かけたバーの女の話なのか、とにかくうれしそうである。
さて、いざ質疑が始まる。身内のようなコウメイトウなどの質疑はお決まりのどうでもいいような当たり障りのない内容で終わる。あほくさ。さて野党の登場である。期待満々。突っ込め―!やっつけろー!やったレー!・・・。なんかその内容もよくよく聞いていると、言ったの言わないの個人攻撃に終始し、肝心の大問題からそれていく。子どもの喧嘩以下の体たらく。本人はすっかり調子に乗っていいつもりなんでしょうが、見ている方は閉口する。答弁に至っては、焦点をごまかし全く要領を得ない「別な」話にすり替えたりしてインチキ手品師もびっくり。いつも一番に目につく野郎は言うまでもなくアソウである。あのニタニタ顔何とかならんか。二番手はどんな時もどんなことにも流暢にとどこおりなく答弁するアベのくちびる。・・・でありますから・・であります。と、全ての事を自分が正しいと定義ずける。あの答弁のテクニックはどこで身に着けたのだろう。

相撲中継を見ていると、取り組みが終わった力士が戻ってきて「モニター」で確認をしている光景をよく見ます。勝っても負けても自分がどんな相撲を取ったのか、客観的に観察、分析、反省。その姿勢が次につながっていくのでしょう。いいか、この国会議員のアホども!中継の録画を見たことがあるか!自分がどんな恥ずかしい大人であるのか、客観的に見てみろ。余りにも恥ずかしくて見れないよねー!。見てしまったら二度とあんなことできない。

「人のふり見て我がふり直せ」と言われたのはもはや過去の事。客観的に自分を見ましょうよ!すべての大人に告ぐ。「自分のふり見てわがふり直せ!」


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