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丸く収める

穏便に丸く収めるのが大好きな日本人。波風を立てないように、ひっそりと、しめやかに、控えめに、厳かに・・・・などとにかく「静」を好むのである。穏やかで争いを避け、紳士的。象徴的なのが現・平成天皇のお言葉にしばし現れる。それを批判するつもりはないが、それでことが済めば世話はない。

・・だ!ではなく、・・だと思います・・・という表現のなんと多いことか。アンケートを取ると「そう思う」「そう思わない」そして「どちらともいえない」の三つの意見。どちらともいえないが一番多かったりする。それって意見なのか?ものすごく悪い言い方をすれば、単に曖昧なのであるb。はっきりとものを言うのが怖い。嫌われたくない。この「・・・と思う」という言い方からして腹が立つ。

世界情勢が刻一刻と変化していく中、その「曖昧さ」はもはや通用しない。丸く収めたいのならその前にすることがある。本音を全てさらけ出すことである。その上で、歩み寄り妥協も交えて「丸く収める」のである。本音を言わない日本人。いつまでそんな態度が通用するのだろうか?

猪年がスタートした。猛進を進めるわけではないが、少なくとも意見だけは猛進してもいいのではないか。言いたいことを言わないからとんでもない立ち位置に追いやられているのである。それでも、まだいうか?「・・・と思います」と!

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続・じじい放談

日本人、大好きな「思う」という表現からちょっと離れよう。思うのではなく「考える」でなくては間に合わない。Thinkという英語。意味は「考える」である。もちろん「思う」という意味合いもある。だがほとんどの外人(どこの人達よ?)がこのThinkという言葉を使うときは「思う」ではなく「考える」という意味で使っている。自分の意見として述べる、主張しているのである。

思うなんていう甘っちょろい表現は横に置いておいて、今年は「考える」で主張しましょうと、私はそう「思う」・・・じゃない、そう「考える」!

専門家とは

世の中によくぞこれだけ多くの専門家がいるもんだ。専門家らしき者と言った方がいいのかもしれない。相当な知識、経験を持ち研鑽を積んだ人を専門家というのかと思っていた。最近の専門家?の皆さんは、例えばいわゆる専門学校を出ましたとか、どこそこの専門機関でちよっと働いてましたみたいなことくらいで自称「専門家」を公言する。言ってることが上っ面で、突っ込まれると休止する。そうなっってしまっても恥じることもなく開き直る。そうなってくると、これは誰でも彼でも専門家になってしまうわけで、信ぴょう性が疑われ、最も大事な信頼感がなくなる。今の国会議員先生?ですか、いわゆる**大臣がそろいもそろってその代表選手となっている。専門外の役割を押し付けられ気の毒とは思いますが、とんでもない答弁を繰り出し押し通す。これは要である首相の無責任、無能力以外の何物でもない。

TVを拝見していると、何かにつけこの専門家?らしき人が必ずや出現し、もっともらしいコメントをのたまう。聞いたこともないような大学の准教授だとか++研究所の所長だとか++総研主任コメンテイタ―とか、何もんじゃお前ら!えっらそうにー!本当に分かってものを言ってんのか!

何でもすぐわかる、すぐできるネット社会のひずみ。勘違いの世の中、みんな自分が天才になったような気でいる。なんでも知ってるしー何でもできるしー・・・。それこそ「自称専門家」ばかりである。自分基準の自己満足型の集団。そのくせ相手を認めたり尊敬したりすることをしない。人間関係がどんどん表面的希薄の状況になっていく。最終的に信じられるものがつまりは、AIになってしまうのだ。コンピューターしか信じない、友達はパソコンだけ。
本当にそんな時代になってしまった感が強い。

肉じゃがを作ってみましたー!スマホが全部教えてくれたんですー!。いただいてみました。「・・・・・」。ジャガイモ、やたら歯ごたえがあって、懐かしい母の味はしませんでした。いいんです。それでいいんです。形は実に見事にできていましたから。ご本人も満足顔。今度は何作ってあげましょうか―?いいえ、もう結構です・・・



発達障害とは?

平たく言うと、普通の人?ができることができない・・・ということでしょうか。最近やたら注目されているこの「発達障害」。代表的な症状として「注意欠陥障害」「多動性障害」「学習障害」などがあるようです。大人になると、社会生活の中であらゆる批判を受け、最悪「生きる資格ない」などと罵倒されることもあるという。
厄介なのが、外見からは分かりにくく、「なまけている」「さぼっている」などと誤解されることがしばしばあって、できないことが本人にとって一番の苦しみであるという。
「発達障害の人と他の人は感じ方、とらえ方が違う。全く異なる世界に生きているんです。」という主張が本日の新聞紙面にありました。この主張に対して思うことあり。そのままを受け入れれば確かにそういう障害の人は気の毒であり、周りが大いに理解を示さなければならないということになりますよね。失礼・無礼な発言に対する批判を覚悟で、「甘い!」というのが私の意見です。感じ方・とらえ方というのは多かれ少なかれ皆違う。それをいろんな努力や鍛錬や訓練や妥協?などで社会生活に対応できるように頑張っている。もしみんながそれぞれの感じ方・考え方だけで生きていったら、それこそ社会崩壊になる。発達障害の人は「特殊」あるいは「特別」な人だから、「一般の普通の人達、理解してよ、協力してよ」と言っているように聞こえる。
「そうじゃない!!」という反論がすぐにでもくることとおもいます。反論としておっしゃりたいことは分かっているつもりであえて「甘い!」と申し上げます。一般人?がもしそういうことを理解しなければならないとしたら、主張する方法に問題がありありであります。「わかってちょーだい!」では誰もわかってくれない。先の新聞紙面の主張は、そういうことです。人と違うということを分かってもらうということは大変なことです。芸術家などもその最たるもので、生前に理解してもらえなかった人のなんと多いことか。

「何とか障害」というように定義ずけることがそもそもおかしいわけで、囲いをつくり枠にはめられるようなことではないわけでしょ。その枠からはみ出しちゃてるわけでしょ!だったらどのようにはみ出しているのか、もっともっと表現して下さいよ!そういうことができない人のために、そういう組織・団体があるのだったら、そういう所がもっともっと発信するべきです。芸術家は絵であったり音であったり言葉であったり踊りであったりあらゆる手段で表現し主張します。発達障害の方、何らかの方法で一般人が理解できるように表現して下さい。過激な発言ですが、「私は**発達障害です」と書いた名札を付けたらどうでしょうか。

立場を主張しすぎると・・・

立場とは、その人が置かれている社会的・心理的な場所。社会的な場所としては、社長とか先生とか医者とかどこぞの社員だとか何とか係だとか・・・あまたある職業的立場の事。心理的な場所とは、例えば嫁としての立場だとか苦しい立場とかいうことらしい。いずれにしても個人的なことであることであって、100人いれば100の立場があるということになって、それぞれが其々の主張を持つ事になる。ほったらかしにしておくと収拾がつかないことになる。

車を運転していると歩行者が邪魔になる。歩いていると車の横暴な振る舞いに腹が立つ。先生は無下に児童を叱る。児童にしてみれば先生が気持ちを理解してくれない。夫の振る舞いに腹が立つ。妻の対応にイラつく。医者と患者・店員と客・かたずける人と散らかす人・やる人とやらない人・・・など、関係を挙げたらきりがない。あらゆる関係の中で自分をコントロールしながら生きていくのが人間社会であって、余りにも主張が強すぎるいわゆる「自己主張型」ばかりになると社会は崩壊する。実際、今がまさにそういう社会になってきて、家庭内、学校内、会社内など規模にとどまらず、国内全体がそういうことになってきている。いや地球規模で「自己主張」だらけになっている。地球を存続するための主張なら大いに結構なことだが、ほとんどが強烈な「自己主張」になってきた今、まさにその存続は不可能へ向かっていくしかないのである。

我々にできることは先ず、小さな「自己主張」を顧みて改めていくことではないでしょうか!「主張」と「言い分」は違うということです。「主張」だと思っていること、実は単なる「言い分」なのかもしれません。言い分からは解決策は生まれませんよね!今年最後の反省でした。

何だと思ってるんだ!

車の運転をなんだと思ってるんだ。「ブレーキとアクセルを踏み間違えた・・・」。事故を起こした高齢者や女性のドライバーの口からよく聞かれる言い訳。
ハイ―?何とのたもうた?。てめえら免許持ってんだろう、ちゃんと教習所行ったんだよね。アクセルが右でブレーキが左でということは分かってんだよね。一々ペダルを見ながら操作してるわけじゃない。足がちゃんと反応してるはずだよね。それが誤作動を起こす。なぜか?

例えばバックする時、上半身を反転させて後ろを確認することがある。その時に足元があやふやになってブレーキを踏むつもりが、アクセルを踏んでしまった、なんてことは可能性としてはあり得る。簡単なバックだと、それこそバクミラーとバックカメラだけで後方を確認。顔も体も前方を向いている、ということもある。そんな時に踏み間違えることがあるのだろうか・・・。
渋滞で自分の車が止まっている。横の車線の車が動き出したり、反対車線の車が動き出したりした時、ブレーキを踏んでいるはずの自分の車が動き出したような錯覚を覚えることがある。焦って、更にブレーキを踏み込んだりした経験がある。そのような錯覚を起こし、パニックになって踏んではいけないアクセルを踏み込んでしまうといことが考えられる。止まろうと思って逆に走り出してしまったり、つかもうと思って逆に離してしまったり・・・。

何らかの影響で感覚や感性が狂い、間違い・勘違いを起こす。日常至る所にその可能性があってトラブルが起こる。小さな間違いで済めばよいのだが、こと車に関する事での間違いはちょっとしたことでも許されることはない。あってはならない。そのために免許制度があり、更新というチェック体制があり、厳しい法規があり取り締まりがあるのである。ところが、この「踏み間違えた」という言い方が、なんか「踏み間違えちゃったー」みたいな弁解に聞こえる。「ごめんなさーい、しょうがないじゃーん許して―」みたいなニュアアンスを感じる。冗談じゃない!ふざけるな!。挙句の果てに「なんかそんな時にも車が判断して止まってくれなくっちゃー」・・・とか言いそうである。

最近の車、ほとんどがオートマで(オートマってオートマティックの略だってことすら知らない)自動ブレーキ装置だとかパーキングアシスト装置だとか本来人間が意識して実際にやらなくてはいけないことが、どんどん自動化されていく。何年か後には運転も自動化されるということだ。何なんだ。どうしたいのか?

全てが自動化されて、足が退化して座ったままで生活?をする。それで全ての事が成り立つ。というアニメがあった。そういう兆しがあちこちに見受けられるような世の中になってきた。道具を使うという能力で、他の動物にない大進化を遂げてきた人類。それが自動化されることによって。その「道具」から離れそれを捨てようとしている。今、突き進んでいる「進化」とは、本当に「進化」なのだろうか。

道具は使う物であって、使われるようになってしまったら人類が存在する意味・意義がなくなってしまうのではないだろうか。いずれにしても「車」の運転には最大の注意と感性と誠意を!決して車の「せい」にだけはしてはいけない!

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