HOME > 音気楽ブログ > 社長ブログ > 渦中の人

音気楽ブログ

< 不意の来客  |  一覧へ戻る  |  HI!ブロッギー~その26 >

渦中の人

渦中の人(カチューシャ?)なんちゃったりして。は、とにかく馬車馬のごとく周りが見えない。前へ前へ突き進む。そのうちドツボのはまってグールグル。
私共の音楽教室にここのところ毎日のように、ピアノの練習に来られる方がいらっしゃいます。生徒さんではないんですが、お友達にプレゼントする曲を録音したくて、まずは練習、練習、練習。そして録音するとどっか間違える。また練習、練習練習。そしてミス、ミスミス。あーなんだかんだ言いながら今日もすでに1時間経過。ちょっと休憩すれば?とも思うんですけど、ちょっと覗いてみると目が見開いて眉間にしわまでよって、口角下がって・・・。とてもお声をかけられるような状態ではありません。
他人事ならず、わたくしもそうなっちゃうことが大いにあります。他から見てると「あーあ、またやってるし―。」と笑っちゃうんですけど、党の本人はそうはいかない。もうどうにも止まらないんです。解決法は、「あきらめる」です。一旦引いて別なことやる。別な曲弾いてみる。意識をそらす。解放してあげる。いわゆる「リセット」ですかね。パソコンも時々固まる。解決法は「電源落とす」ですよね。

コロナコロナでここまで来ちゃいましたけど、なんかすべてが「コロナベース」になっている。ここらでいったんベースを変えましょう。
リセットーーーーーーーーーーーー!

カテゴリ:

< 不意の来客  |  一覧へ戻る  |  HI!ブロッギー~その26 >

同じカテゴリの記事

応援

「応援、よろしくお願いしまーす!」と、自ら要求する。そんなコメントが当たり前のようにアスリートなどから聞かれるようになって久しい。当初はなんだかえらくわがままな要求やなーと思って、抵抗があったもんです。応援とはそもそもするほうが自主的にやるものであって、要求されたからするというものではなかったはずである。それを自ら「みなさーん、おうえんしてよねー」なんて堂々というもんですから、恥ずかしくないんかいと思っておりました。応援とは必然の中から生まれるものだと思っておりましたよ。案外、いろいろな選挙演説の中でのある言い方が発端なのかもしれない。恥も外聞もなく彼らは自分の当選を願って「応援よろしく!」と叫ぶ。それがあらゆるところで簡単に使われるようになったのかもしれない。
応援そのものは決して悪いことではなく、むしろ人生にはこの「応援」が不可欠である。応援とは相手を認めるということ。相手を評価して認めるということ。そんな応援があるからこそ受けたほうは前に進めるんです。実力以上の力が出るんですね。私は図らずもPTAの会長になってから、事あるごとに子供たちはもとよりすべての人たちに「フレーフレー」とエールを送っております。「フレーフレー」おじさんというあだ名がついたくらいです。
すべての人に、こんな時だからこそエールを送ります。「フレーフレー人類!フレッフレッ人類――――!」


現行犯逮捕?

路上に横たわっていた女性を、誤って轢いてしまった。車に衝突され女性は頭を強く打っており、搬送先の病院で亡くなった。運転していた50歳の男性が「現行犯」で逮捕された。男性は「容疑」を認めている。しかし、その女性は「先に路上に倒れており、頭から血を流していた「」という目撃証言があり。
この記事を読んでぞっとした。日頃頻繁にうんてんしている私にとっては、他人事ではない。そう思ってる人、たくさんいるはずです。なんで横たわってる人轢いてしまうと「逮捕」なんだ?なんでそれが「容疑」という表現になるんだ?そもそも道路に横たわっているほうがおかしいのに、そういう可能性も踏まえたうえで、慎重に運転しなければいけない!と、偉そうに道交法を掲げて言い張るお巡りさん。冗談じゃないぜ!それでなくてもあっちゃこっちゃ注意を払ってどえらい思いして運転しているのに、路上ばっか見ていられるかってんだ。ネコさんやカラスさんが路上で伸びていることがある。気の毒ではあるが発見が遅れて復轢きしてしまうことがある。50キロ60キロのスピードが出ていれば間に合わないことだってある。ひいちゃったものはしょうがないじゃないかといってるのではない。突然路上になんか落ちていれば、間に合わないことだってあるんだ。
この男性ドライバーだって、好き好んで轢いたわけじゃない。ドライバーにとって、発見するのに一番不利な路上の障害。それを誤って轢いてしまった。それが何で「逮捕」なんだ。逃げたのならいざ知らず・・・・。「容疑」とは何だ!完全に犯罪者扱い。こんな仕打ちを受けるのはまっぴらごめんだ。私の身に降りかからないとは言えない。もう運転するのなんかやめたいよ!何でもかんでも歩行者優先じゃないでしょ!ましてや今回の場合は歩行者ならぬ「横たわる人」なんですから・・・・

けど人

あなたの周りにも必ずいる「けど人」。もしかしたらあなた自身がそうなのかもしれない。

何かというとそのたびに「けど!」という。言わないと気が済まない。言われていることがわかっているくせに、とにかく「けど」というんです。認めているくせに「けど」というんです。同じような人種に「それって人」というのもいます。言われたことを必ず自分語に直す。相手の言ったことを素直に認めるのがよっぽど嫌で、「それって」つまりあなたの言いたいことってこういうことでしょう!と、自分語でさも自分が発したように言い換える。負けず嫌いというかいやそうじゃない、すなおじゃないんだなー。常に自分が優位な立ち位置にいたいんですねー。いわゆる女王様タイプの人がそうですねー。
なぜそうなるかといいますと、自信がないんです。認められたことがないんです。成功体験がないんです。なぜそうなるのかといいますと、育てられた環境でそうなっちゃうんです。親が子供を認めない。誉めない。この「誉めない」が一番の問題です。どんな些細なことでも褒められると、人間はうれしいんです。認められた!と自信を持つんです。それが成功へつながっていく。ところが度量の狭い親(現代の親はほとんどがこの狭い親です)に育てられると、子供の気持ちが満たされない。物がいくら豊富でも気持ちの入れ物は空っぽ。そこでそれを埋めようとして、無理やり自説を唱え、認められようとする。自分で自分の満たされない穴を埋める。お粗末な材料で埋めるためにますます空虚感が広がる。まさに悪循環であります。

子供に限ったことではなく、人間関係、すべて「誉める」であります。これさえやっておけば、これがスタートとなってすべての人間関係はうまくいく。みなさーん、ほめあいましょう。まずは身近な、ほら目の前にいる人を誉めんかい!子供でも旦那でも友達でも犬でも猫でも、なんでも誉める。

「誉め褒め教」教祖  鈴木康弘

適温

コーヒーが好きで一日に5~6杯は飲みますかね。朝はドリッパーで淹れる。あとは簡単な一杯だての物なんですけど、適度な苦みと香りが命なのでインスタントは飲まない、飲めない。さらに大事なのが「温度」である。淹れたてはおそらく90度くらいなんだと思う。表面を湯気がさっそうと舞っている。それに伴って香りが登ってくる。その温度では舌には少々熱いのだが、その熱さの刺激もたまらない。やがて適温となりスムースに入り込んだ苦みと香りが口中に広がる。80度くらいかと思われる。時間の経過(分単位の経過である)とともに温度が下がり始めて、60度を下回るあたりから妙な酸味が出始め、全体がドロリとした印象に変わり始める。いわゆる酸化現象である。こうなったらそのコーヒーは「死んだ」のであって、もはや飲むには値しないものになってしまうのである。そこに至るまでの時間は3分。であるから、コーヒーは3分以内に飲み干すべきである。

話に夢中になったり何か別なことに気を奪われたり猫舌であったりと、大体が3分以内には消化しきれていない。経過したものははっきり言って「毒」である。紅茶を愛するイギリスに方々も紅茶の正しい飲み方を知っていて、この「時間」を問題にされることだろうと思われます。味噌汁なんかもそうかな。やはりそれぞれに「適温」というものがありまして、人の心なんかも同じで、「適温」を無視すると動かないものなんですよね。恋愛において男が失敗する一番の原因が、この女性の「適温」に対する無神経・無知であります。温度を保つことも大事ですが、「保温」しすぎるとやはり味が落ちます。適温には時間的に限りがあるということですね。

人にも物にも「適温」がある。今一度この「温度」を見直してみませんか。

「過多」の時代

過剰・過激・過度・過誤・過信・過払い・過敏・過保護・過分・過密・・・・・・・。この「過」が世間に世界に蔓延し、し尽している。まさに「過ぎたるは及ばざるがごとし」であってその挙句の果てが今回の騒ぎである。人間の欲望はとどまることを知らず神が警鐘を鳴らす。今までに幾度も聞いた警鐘を軽視・無視してきた人類への最後の通告のような胸騒ぎがする。どこまでもいつまでも「高」をくくる日本の首脳陣。終わりを迎えたときに彼らはどんな顔でどんな言葉を発するのか。おそらく自分たちの安全はしっかり担保し、・・・で、ありますからで、あります!と締めくくり、とんずらするのであろう。
「自分のことは自分で考え、自分でやる」なのである。最悪、誰もあなたに手を差し伸べてはくれない。人を信用するなと言っているのではない。人は自分が生きていくので精一杯なのである。今回のこの騒ぎで「目」を覚まさなくてはいけない。誰かが何とかしてくれないのである。

人間にはもともと「サバイバル」の中で生きていく知恵があったはずである。今こそその感性を呼び戻すチャンスである。与えられることに慣れ切ったあほな人類よ、目覚めよ!。人間は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という素晴らしい五感を神様からいただいた。にもかかわらず、だれもそれらを意識することなく、ただぼーっと使っているだけである。感性は意識をもって磨けば光るのである。暇をこいてないで、今まさに感性を磨くチャンスなのである。改めて申し上げる。「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」

このページのトップへ