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発達障害とは?

平たく言うと、普通の人?ができることができない・・・ということでしょうか。最近やたら注目されているこの「発達障害」。代表的な症状として「注意欠陥障害」「多動性障害」「学習障害」などがあるようです。大人になると、社会生活の中であらゆる批判を受け、最悪「生きる資格ない」などと罵倒されることもあるという。
厄介なのが、外見からは分かりにくく、「なまけている」「さぼっている」などと誤解されることがしばしばあって、できないことが本人にとって一番の苦しみであるという。
「発達障害の人と他の人は感じ方、とらえ方が違う。全く異なる世界に生きているんです。」という主張が本日の新聞紙面にありました。この主張に対して思うことあり。そのままを受け入れれば確かにそういう障害の人は気の毒であり、周りが大いに理解を示さなければならないということになりますよね。失礼・無礼な発言に対する批判を覚悟で、「甘い!」というのが私の意見です。感じ方・とらえ方というのは多かれ少なかれ皆違う。それをいろんな努力や鍛錬や訓練や妥協?などで社会生活に対応できるように頑張っている。もしみんながそれぞれの感じ方・考え方だけで生きていったら、それこそ社会崩壊になる。発達障害の人は「特殊」あるいは「特別」な人だから、「一般の普通の人達、理解してよ、協力してよ」と言っているように聞こえる。
「そうじゃない!!」という反論がすぐにでもくることとおもいます。反論としておっしゃりたいことは分かっているつもりであえて「甘い!」と申し上げます。一般人?がもしそういうことを理解しなければならないとしたら、主張する方法に問題がありありであります。「わかってちょーだい!」では誰もわかってくれない。先の新聞紙面の主張は、そういうことです。人と違うということを分かってもらうということは大変なことです。芸術家などもその最たるもので、生前に理解してもらえなかった人のなんと多いことか。

「何とか障害」というように定義ずけることがそもそもおかしいわけで、囲いをつくり枠にはめられるようなことではないわけでしょ。その枠からはみ出しちゃてるわけでしょ!だったらどのようにはみ出しているのか、もっともっと表現して下さいよ!そういうことができない人のために、そういう組織・団体があるのだったら、そういう所がもっともっと発信するべきです。芸術家は絵であったり音であったり言葉であったり踊りであったりあらゆる手段で表現し主張します。発達障害の方、何らかの方法で一般人が理解できるように表現して下さい。過激な発言ですが、「私は**発達障害です」と書いた名札を付けたらどうでしょうか。

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過剰の末路

過剰包装・挨拶・おもてなし・インフォメイション・装備・・・過剰子育て・過剰介護なんてえのもあるかな。とにかく今の時代、何でもかんでも過剰!。ここまでやんなくたっていいじゃないか、必要ないことが多すぎる。その必要のないことをやったり、装備したりしてお金がかさむ。ノーマル仕様だとこんなに安いのに、さして必要のないものをくっつけていくと、とんでもない値段になっていったりする。人為的サービスにしても基本いらないことばっかりを上乗せして、料金に乗せる。「オプション」なんていう英語に騙されて、何の抵抗もなく金を払うばかばかしさ。こんなところにも日本人の外国かぶれ、外国語に弱い体質が露呈する。

車を買い替えた。グレードの高い車種がモデルチェンジを控え、現行車が安く買えるというので、それを注文した。同じメーカーの同じような車種だったので装備などあまり確かめもせず、納車時に取扱いの説明を聞いた。「うーーーん」。何やら一回ではよく分からん装備がたくさんついている。走るための基本だけをとにかく理解して、あとはおいおい説明書など見ながらと思いつつ、もう1か月もたってしまった。その他の装備は別に触らんでも何の支障もない。ハンドル周りにも何やら沢山ボタンやレバーがついている。未だに何にも活用していない。そんなものがついているために恐らくそうとな金額の上乗せになっているのであろうことは容易に理解できる。

物の本質から外れて、やたら飾り立てる。そういう方法でしかもう金儲けもできないし、他との差別化も難しいのであろう。うちのはここが違います!これはうちだけです。などと言いながら、どうでもいいようなことを誇張してアピールする。何か選挙演説みたいだなー・・・。

そうやって過剰を繰り返し、過剰の上に過剰を重ねる。行きつく先は「破綻」「破滅」である。やめようと思ってももうどうにも止まらない!(森山かよこさんが50年前に歌っていた歌が本当になった?)

デザインとは

最近、っていつのことだよ。いつからが最近なのかモー分からん。デザインという言葉の響きにある意味敬意を表していたのだが、何が良いデザインなのか、もう分からん。良いとか悪いとかの基準もどんどん変わっていくのであって、変わらなければいけないので・・・しかし例えばデッサンとか基準とか基本とかは変わんねえよなー。
なんかそういったものまでが、どんどん変わっていってしまっているように思える。音楽の世界で言えば、ピアノを習うときの基本の教本。バイエルはちょっと置いておいて(なぜなら、ドイツの伝統的教本で在りながら、ドイツではもはや使われていない)ハノンとかツェルニーとかソナチネとかが定番であったのですが、今やシーラカンス扱いされている傾向にある。欠点を改良して新しいメソッドを作り上げていくことは大変良いことです。それならば充分いいんだけど、なんかいきなり指の練習もしないで勝手に弾かせる?のはいかがなものでしょう。準備体操しないでプールに飛び込むようなもんだ。思ったままに表現するのが芸術だーーーー!みたいな先生も増えている。

かの有名なピカソも初めは?しっかりしたデッサンをきっちりとこなしていたし、錦織選手だって地道な基礎練に相当な時間を費やしているはずです。従って思いつきでポソッと書いたいたずら書きが素晴らしいデザインで!とか何気なく鼻歌を歌ったら歌手の才能があるとか、ポンとボールをけってみたらサッカーの選手に向いているとか・・・・。まんざらではないかもしれんが、即才能・天才なんてえことにはならない。
が、今の時代はそういうことが平気でまかり通り、評価されて大金をつかんだりするだよね!思いつきをITがAIがしっかり形に仕上げてくれる。みーんな努力しないで天才になれる時代になったー!  バンザーーーーイ!。じみちな努力は報われない・・・・

「群れ」る

日本人独特の「群れる」文化は、世界に理解されるのだろうか?右向け右、左向け左!。軍隊以外に、子供たちにこのような教育を行っている国を知らない。
サー皆さん、ご一緒に・・・。幼稚園からすでに統制されながら成長する。従って号令がないと動けなくなる。自分で判断して自主的に行動することができなくなる。正確でおせっかいなインフォーメーションがないと何もできない、何処へも行けない。
先日、小学校の運動会がありました。外部からもたくさんの方がお見えになるので、特にトイレの場所についての案内版に神経を使ったつもり。矢印を随所に設け目的地まで間違いなく行ける!と思っていたのはこちら側の感覚。利用者からの苦情は、その矢印の間隔が長すぎて、途中で次の矢印を見失った・・・というもの。そうなのかー・・・・。

分からんかったら、その辺の人もしくは生徒に聞けよ!いや、そんなこと聞きたくない。もちろん自分で探すなんてとんでもない。全てが過剰な御ぜん立てに慣れきっているので、ほんのちょっと「ずれ」ただけで何にもできなくなっている。
同じ目的を持った同じ方向の人がいればいいんです。ついていく、流れていく。そして、こういう所に「群れる」ことの欠陥がでる。あの悲惨な大戦の時も、誤った情報でそれに群れたことで、たくさんの人が命を落とした。あっちに逃げろ―!と言われて何も考えずにそちらに向かって焼け死んだ。

外国の方の意見・考え方が正しいなんていうつもりはない。しかし、外人から見てこの日本人のいろんな「奇異」に見える行動や思考。どのように映って見えるのか、なぜそのような行動をとるのか思考をするのかなど、客観的に見つめてみようではあーりませんか(安倍さんの得意な口調)。

私個人の見解。やっぱ、おかしいでしょ!

ほんの・・・

ご無沙汰いたします。仕事とPTA活動と日々の体の痛み対策に追われております。追われるということはあまり良いことではないですね。それこそ余裕がない。気配りができないし優しくなれない。
昨日は息子の通う小学校の運動会でした。お天気にも恵まれさほど暑くもなく無事に終了。私、PTAの会長として、朝はよから出勤?。一日中見回り役でへとへと。閉会式の挨拶まで気が抜けない状態で、本当に疲れました。でも、子供たちの素晴らしい頑張りに心底感動を覚え、充実した1日を送ることができました。校内を回っておりますと、ほとんどの子供たちが挨拶をしてくれます。「おはようございます!」「こんにちは!」と、気持ちの良い返事が返ってきます。そこにはその3倍くらいの大人がいたのですが、ほとんどの大人が無言です。ちょこっと頭を下げたり、「ども」などと返事をしたり・・・。中にはわざと知らんぷりをしたりする人もいます。「かんけーねー」ですかね・・・。こういう大人たちが、偉そうに子供たちには「きちんと挨拶をしましょう」とか「返事をちゃんとしなさい」などと言っているわけです。
ほんの一言、言えばそこから気持ちが開く。無限に広がる。あるいはほんのちょっとの気遣いで気持ちがつながる。子供たちは恐らく、日々の学校生活の中で、それを実践しているのだと思います。でなければ、750名もいる学校という社会に中での生活は成り立ちません。

子どもたちから大いに学ばせて頂いた、有意義な一日でした。ありがとうございます。




やたらと・・・

ご無沙汰いたします。私、今どえらい目にあっており、ブログを更新する気力・体力が喪失しておりました。どしたのー?あのね、PTAの会長さんになっちゃったんです。年間7~8回公的な場所であいさつをしてくれれば・・・という説明を信じたばっかりに・・・。皆さんその「あいさつ」が苦手で、会長が決まらないんです、もう3ヶ月も・・・と泣きつかれて。引き受けたはいいものの、実際引き継いでみたらどうよ!。あれもこれも何もかも次から次に押し寄せる業務。入学式の来賓にお茶をお出しする・・・なんて―のもあったりして、もう唖然。当然のことながら、周りは99%いや100%女性、お母さん方。私の娘のような年齢の方が多く、何とも異様な雰囲気。彼女たちもある意味やりにくいだろうなーとか思う。最初のころは女性の更衣室に突然放り込まれたような気になって、うれしいやらうれしくないやら・・・。呼吸困難になった。
連絡を取り合う手段として、ラインなるものもやるはめになった。これがしょっちゅう「ピンポラポン」とうるさい。なるから読まざるを得ない。読んでみると、どうでもいいようなこが多くて、やはり女性というのは何でもかんでも「どおしよー」「そうよねー」みたいなことになるんだね。文の締めくくりにはなんかのキャラが「ごめんなさい」とか「ありがとーーー」みたいなことを言って深々とお辞儀をしている。

スマホの普及により、連絡の手段がほとんどこのメールによるものとなった。文字で相手に伝えるため、言いにくいことなんかも結構ダイレクトに書けちゃったりして勝手が良いのでしょうね。そして最後に忘れちゃいけない「ごめんなさーい」「ありがとーーー」での締めくくり。この二つを言っておけば、何を言ってもだいたいほとんどOKになっちゃうんですね。

メールに限らず、実際のレアな人間関係において、最近感じるのはやたらこの「ごめんなさー」と「ありがとーーー」が多いと感じます。なんでもないことにすぐに「ごめんなさーーーい」。ちょっとしたことにこれまたすぐに「ありがとーーー」。挨拶をすることはとても良いことだと思うのですが、話や事が進まない、核心に触れないうちに「あり・・・」「ごめん・・・」が多すぎるし速すぎます。さっさと予防線を張っちゃう感じ。相手の侵入を手前の手前で阻止しちゃう感じがする。本心からの謝罪や感謝とは思えません。事なかれ主義?

それが最近のしょせいじゅつなのかもしれませんねーーーーー。いろいろ言って「ごめんなさーい」。聞いてくれて「ありがとーーーーー」。

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