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光線だらけ

「ほのかな明かり」が減って、「光線」ばかりになった。優しさが失われていく現代を象徴するように、光がどんどんきつく冷たく攻撃的になっていく。どーんと早くなった日暮れ。伴って車のヘッドライト照明が早い時間から点灯される。とにかく眩しい。LEDが主流になって、しかも背高のワゴン車なんかが増えたこともあり、とにかく突き刺さるような光線が飛んでくる。運転者側からするとスッキリくっきりと視界が開け、安全に運転できるんだもーん!ですか。
当てられた方はたまんない。目がくらんで前方が見えなくなる。思わず目を閉じてしまうことも。こっちの安全運転はどうなっちゃうのか・・・。

街燈(いわゆる電信柱の電気)も様相が変わり、殆どがちっちゃなLEDへと変わりつつある。今まで感じていた暖かさはない。電柱の照明って、なんか「お帰りなさい」と言ってくれるような優しさがあった。昔の話か・・・。確かに周辺が倍以上に明るくはなった。だが、心が明るくはならない。

色々なことが一方通行で、片方にしか利益がないような世の中。弱者はどんどん押し流され消えていく。「主張」は権利があってすることだが、一方適であってはいけないわけで、しかし強いものが勝っていくのである。生きるということは勝ち負けを決めることなのか。何が勝ちでないが負けなのか・・・

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おしんこに醤油

おしんこが出てくると即、醤油をぶっかける。ラーメンには胡椒をふりかける。サラダにはドレッシングをかけまわす。そのものの味を確認することなく、ほぼ条件反射のごとくそういった行為に及ぶ。調理する人の立場からすると、何ともさみしい思いになるのである。まずはそのままで味を確認し、好みで加えていくのが正しいのであって、最初っからまるでそのもの「無視」みたいなことは、食べ物とそれを作った人に失礼であり冒涜である。人の意見を聞かずに、自分のやり方を押し付けるのに等しい。
職業柄、一般家庭にお伺いすることが多いが、コンサートホールやライブハウスなどにも出かけていく。そこで、その場にあるピアノの調律をするのである。ホール調律は、最終的に演奏者にその仕上がりを確認してもらうことがほとんどで、後のトラブルが発生することはまずありえない。ライブハウスの場合は特定の演奏者のために調律するわけではないので、いちいち演奏者の確認を取るという作業はない。つまり普通に調律をすればそれで業務が完了したことになるわけで、その後どのように変化していこうと責任の範囲ではない。月に一回の調律というパターンが多い。やったばかりのピアノのコンディションは当然いいわけで、日を追うごとに調律は狂っていく運命にある。そんな時に演奏に来たピアニストは不運ではあるのだが、それは致し方ないことで、良い状態を保持しようと思ったら、毎日調律するしかない。あるピアニストに限って、その狂いが我慢できないのか、狂っている弦に必ず詰め物をしていく。自分は耳がいいんだぞ!こんな狂った音は許せないぞ!と言わんばかりにへんてこなフェルトを丸めたようなものを詰めて、その音の発音を止めていくのである。次に調律に行くとその詰め物が残っていて、あー、あいつまたやりやがったな・・・となるわけである。
ライブハウスのピアノはあんたの物かい?演奏者がピアノの内部に触れることはご法度である。自分の私物ならいざ知らず、人の持ち物のピアノにそういうことをするのは犯罪?である。少なくとも自分の演奏が終わったら、その怪しげな詰め物は外して持ち帰るべきである。あんたのやっている行為は言ってみれば「料理屋さんで手弁当を広げる」ようなもんだ。そこのピアノが気に入らないのであれば自分のピアノもってこい。あるいは自分で調律の手配をせー!
こんなやつが、いきなり醤油・胡椒・ドレッシングなのである。御呼ばれしていった先のご飯に文句をつけるのである。小さい奴だ!

かの有名なリヒテルさんや著名な演奏家たちは、ピアノには文句をつけない。その場にある楽器を最大限に生かす演奏をするのである。くるっている音はその卓越したテクニックで弾かないなんてこともできる。「弘法 筆を選ばず」であって、実力のない奴ほど道具にけちをつける。道具のせいにする。そして弄り回したりする。どうか、おしんこにいきなり醤油をかけるという行為はやめてもらいたいもんです。他人の家の味噌汁にケチをつけるもんじゃないぜ!

ひでー世の中になったもんだ

人間が引き起こす様々な悪が蔓延し、国内も世界もありとあらゆる問題が起こり、救いようのない世紀末状態になりつつある。そこでしたり顔で「ひでー世の中に・・・」となるわけですが、振り返ってみればどんな時代だってひでー状態だったわけで、ちょっと前の戦中戦後なんて―のはもっともひでー状態であった事は否定できない。歴史をさかのぼってみると、其々の時代にそれぞれのひでーことがあったわけで何も今の時代だけがひでーわけではない。それを例の「昔はよかった」感覚で現代を批判して先を憂慮する。身近な所で言うと、おっさんたちが自分たちの育った昭和の良いことばかりを懐かしんで、あのころが最高で、今は最悪みたいな言い方をする。実は私もその一人であったのだが、よくよく考えてみるとそういった感覚はその時代の人の感覚であって、それこそ時代は流れていくのであるから、スマホの「指とばし」?のように時代のシチュエイションが変わっていくのは当然なのである。それについていけない、認めたくない思いが現代を否定するのだ。そうしないと生きていけないのだ。否定することが唯一自分を肯定することになる。

いつまでも子どもだと思っていた息子に何かを否定され、意見されたりする。それをなkなか認めようとはしない。「黙れ」とか「お前に何が分かる」とか言って突っぱねたりする。何かその感覚によく似ている。分かっちゃいるけど認めたくない。認める・受け入れることが自分を否定するように思えるからだ。認めるということの難しさを感じる今日この頃、もちっと柔軟に素直にならなくちゃいかんなーと思う。、心身ともに固くなっていくそういう年齢になりました。

何と薄っぺらい

道路を走っておりますと当然、信号がありまして、最近の最新の信号機はLED。慣れないとあの色に違和感がある。そして、あの薄っペラさに驚く。というか、あれ本当に信号機なのか・・・。遠目には一枚の写真もしくは絵のように見える。従って、存在感が薄く発せられるエネルギーが感じられない。肝心な意図が伝わってこないのである。瞬間的に判断しなければならない道路状況において、あれはちょっとどういったもんか。そこに信号があって、強烈に情報を発信している。赤なら「とまれ」、青なら(緑か)すすめ!(正確に言うと注意して進んでも良いのだそうだ)。そういった強烈な発信力を持つべきものが、ああも薄っぺらいとなんかどうでもいいような無視したくなるような・・・。

以前、軽薄短小時代というのがあったが、更に事態は深刻になり、TVもパソコンもスマホもどんどんうすっぺらくなっていく。機能を損なうことなく、コンパクトそして薄くなっていくのはいいことなのかもしれない。が、何でもかんでも薄くなればいいという物ではなく、最近の自販機のドリンクの見本がプラスティック(表だけで裏がない)写真であったりして、質感が全く感じられない。見本なんだからわかりゃあいいじゃん?

表情のないうすっぺらな人間がどんどん増えているように思えますが、せめてそこだけは何とか守りたい。子供には質感のあるものをあえて見せ、与えております。たとえそれが重くて面倒くさいものでも! 
ロールピアノなるものが流行っているようですが、あれはピアノとは呼ばないでほしい。どこにピアノの質感があるのか・・・

ゴミ三態

貯める人・捨てる人・拾う人。人間、ゴミに関してはおおよそこの三態に分類できる。
TVなどで「特番」として報道される、ごみ貯める人が住むゴミ屋敷。なんでだかどうしてだか、あの心理が理解できない。玄関も塞がってしまうほどのごみ。出入りすら困難な状態。人間の感性を超えていらっしゃる。動物?いや虫?の感性か。多かれ少なかれこのゴミというやつは、ちょっと油断するとすぐたまりやがる。机の周りも部屋の中も知らないうちにゴミだらけ。これからの季節、こたつの周りなんか笑っちゃうくらいゴミだらけ。しかし人間、ある時を境にその現状に耐えられなくなって、かたずけるんです。掃除するんです。あーすっきりした、となるんです。が、その機会をうっかり逃すと、ごみの上にゴミが・・・。感覚がマヒして、どんどんたまっていくんですねー。床が見えなくなるくらいになると、そこが分かれ道です。もう後はたまる一方。そして何か月も何年もたって、やがて天井付近までたまる…ということだと思います。感覚麻痺ですから本人は気にしてない。基本、周りに迷惑かけなければいいんですけど。
次、捨てる人。捨てると言ったって、ごみ収集場所に捨てる人の事ではない。自分のごみを、捨ててはいけない所に捨てるヤツの事です。大がかりなのは、産業廃棄物を山中に廃棄したりする。最も悪い奴は、事故原発の汚染水を海に垂れ流してる東京電・・。きちんと処理をして、決められたところに捨てなくてはいけないのに、バックれてこっそり捨てる。余談=次から次へと女を捨てるやつなんて―のも悪質だなやー。捨てるんだったらちゃんと(ケアして)すてれや。
最も小っちゃいのは、たばことかガムのポイ捨て。もちょっと大きいのになると、空き缶の投げ捨てやお菓子の袋の投げ捨て。更にもちょっと大きく多くなると、レジ袋に入れたり段ボールに押し込んだりと、けっこうな量のごみを置き去りにする。更に大きくなると自転車やバイク、家電なんて―ことになるわけで、車を捨てていくなんて―のもいる。これもやはり、最初はちょっとだけなら・・・という所から始まるんだろうな。そして感覚麻痺。えーい、何でもかんでもすてちゃれ!平気平気・・・。おらの周りがキレイになればいいんだもーんと、車からすてていくやつのなんと多いことか。うちのそばに電車のガード下があって、ちょっと曲がり角で人通りがなくて、ごみ捨てに絶好の場所がある。先が一旦停止になっているので、必ず車は止まる。その止まったすきにすてるんだねー。助手席側に集中しているところを見ると、助手がドアをちょいと開けてぽいッと捨てるんだねー。そしてなにごともなかったような顔して逃げ去る。地元民はそんなことしない。通り抜け道路になっているため、通りすがりのヤツが捨てていくんだ。瞬間芸だ。一個捨ててあると、あとは時間の問題。次から次へと増えていく。連鎖反応。感覚麻痺。みんな捨ててるからいいんだもーん。恥ずかしい日本人の実態!

そして、それを拾う人。それが私です。    終わり


免許と資格

「免許」ときいてまず思い浮かぶのは「運転免許」ですかね。これには更新という制度があり、3年に一回、試験場でいろいろな検査を受け、条件を満たせば合格となり更新できる。なぜそのようなことが必要なのか?。運転は人がやることで、重大な過失につながる、一歩間違えれば人命に関わることになるからで、その能力をチェックするのである。視力が落ちた、身体的欠陥が生じた、判断力が落ちたなど、危険を伴う運転という作業に不適合が生じた場合にその資格を見直すのである。事前に事故を防止する、人命を守るためには不可欠な作業である。と、いうことは、一旦取得すれば永遠にその免許が効力を持つものではないということである。従って、運転免許に関しては、それを持つ人の様々な変化に応じて対応が変わるのであって、まさに正解である。教員免許なども更新があると聞いた事がある。医師免許とか調理師免許などはどうなっているのだろう。

そもそも人間なるもの、常に一定の精神力・体力・能力などを維持していけるわけではなく、殆どがある年齢を境に右肩下がりとなっていくものである。あるいは社会生活の中で当然変化をきたし、ゆがんだりもするのである。ハッキリと更新の制度があるものは良いのだが、仮にその関門がない免許なるものがあるとすると、それは大きな問題である。

対して「資格」はどうか。免許に対しては、漠然とした大まかな感じがぬぐえない。公に認められたものもあれば、会長としての・・、とか親の・・とか、受験・・とか地位や身分を手に入れるための条件ということでもある。後者でいうところの「親」の資格。その資格に適合する条件とはどんなことなのか。
毎日のように虐待報道が新聞に載る。(おそらくは「載らない」事の方がはるかに多いのだろと思われるが。)およそ常識(もはや死語)では考えられないような陰湿・陰惨な虐待が秘密裏に行われている。人間として最低限の感性を持ち合わせない輩が犯す犯罪。そういった輩が子供を生み虐待する。虐待するために子を生むのか?と言いたくなる。ある年齢になれば親になることができる。誰もがその資格を持っているともいえる。では、その親の資格なるものとは一体何なのであろうか。それを審査するものがあるのだろうか。

資格という曖昧な定義によって大事なことがごまかされていやしまいか。資格には免許のような「更新」という関門がない。一旦取得してしまえば、ほぼチェックされることもなく周りが何となく認めていくもので、官公庁が認めなければ取得・継続することができない免許とは違うのである。

子は親を選べない。あまりにも悲惨な子供への虐待。それを防ぐには親になるための免許制度しかない。一定の基準をクリアできない人間は親になってはいけない。そしてこの免許にも必ず「更新」が必要なのである。今できることは、私も含めてすべての親が自分自身で「更新」をしてみるべきである。

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