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師走でこそ

とうとうおとといから12月、師走になってしまいました。特に一日の24時間が短くなるわけではないのに、時があっという間に過ぎていく。そして日本人は12月31日を持って本年の終わりとす!。区切りをつけないと気が済まない国民でありますので、何が何でも「年内」なのであります。
焦る、急ぐ、あわてる。そうすると、なんかミスが発生する。落ち着いてやればどうということもないのにドジル。あーやってもーたー!ということでまたまた焦る。更にどうしようもないことになる。
結果的に一番まずいことになるのが「手抜き」です。ちょっとズルしちゃう。それが結果的にとてもまずい方向へ向かう羽目になる。やり直すはめになったり、やり直しても仕上がりがうまくいかなかったり・・・。分かっちゃいるけどやっちまうんですね。

やはり「一手間」が大事なんです。時間にしてほんのわずか、行動にしてほんのちょっとですむ事なんです。それを「マーちょっとだからいっかー・・・」となるんですね。忙しい時ほど「ひと手間」掛けましょう。そしてもっと大事な事、忙しい時ほど「一言」かけましょう。言わなくたって分かってると思った・・・。そこから発生する問題は、ゴマ粒ほどの事がどえらいことになったりするんです。特に近しい間柄、夫婦間で起きる問題は全てこの「一言」がなかったおかげ?ですよ!師走こそ、一手間・一言。乗り切ろう!

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身分・肩書き

「慶応大学性がまたまた性犯罪」!、とニュースが騒いでおります。騒いでいるあんたらに聞きますけど、慶大生はみんな紳士なのか、人間として立派なのか・・・。私立では確かに一流と言われております。慶応ボーイとかなんとか言われて頭良くてスマートでかっこいいイメージはありますが、所詮生身の人間であり、たまたま受験頑張って合格しただけのことで、入試をクリアする能力があっただけの事で、その人間性までもが評価されたわけではない。
世の中、そういう勘違いが多くて、++だから**だから間違いない!みたいなとんでもない誤解だらけです。一流企業の社員だから、医者だから、先生だから、弁護士だからと、そういう身分だけで「良い人」だと思い込み勝手に決めつける。その逆に清掃員だから、トラックの運転手だから、建設作業員だからと、そういう身分の人が何かしでかすと「アーやっぱり」みたいなことになる。

物の見方、考え方を変えない限りそういう誤解はなくならない。特に日本人はそういう傾向が強い。だから「詐欺」が横行するのだ。身分・肩書でひとを判断するから、そういう人はころりと「詐欺師」の餌食になるのだ。人の何を信じ何を評価するのか、もう一回考え直した方がいい。

きちんと物を見ない、見えない我ら「にっぽんじん!」すでに世界から見放されつつあることにも気がつかない。気がつかないふりをする。世紀末は最初に日本にやってくるのだろう・・・。

光線だらけ

「ほのかな明かり」が減って、「光線」ばかりになった。優しさが失われていく現代を象徴するように、光がどんどんきつく冷たく攻撃的になっていく。どーんと早くなった日暮れ。伴って車のヘッドライト照明が早い時間から点灯される。とにかく眩しい。LEDが主流になって、しかも背高のワゴン車なんかが増えたこともあり、とにかく突き刺さるような光線が飛んでくる。運転者側からするとスッキリくっきりと視界が開け、安全に運転できるんだもーん!ですか。
当てられた方はたまんない。目がくらんで前方が見えなくなる。思わず目を閉じてしまうことも。こっちの安全運転はどうなっちゃうのか・・・。

街燈(いわゆる電信柱の電気)も様相が変わり、殆どがちっちゃなLEDへと変わりつつある。今まで感じていた暖かさはない。電柱の照明って、なんか「お帰りなさい」と言ってくれるような優しさがあった。昔の話か・・・。確かに周辺が倍以上に明るくはなった。だが、心が明るくはならない。

色々なことが一方通行で、片方にしか利益がないような世の中。弱者はどんどん押し流され消えていく。「主張」は権利があってすることだが、一方適であってはいけないわけで、しかし強いものが勝っていくのである。生きるということは勝ち負けを決めることなのか。何が勝ちでないが負けなのか・・・

おしんこに醤油

おしんこが出てくると即、醤油をぶっかける。ラーメンには胡椒をふりかける。サラダにはドレッシングをかけまわす。そのものの味を確認することなく、ほぼ条件反射のごとくそういった行為に及ぶ。調理する人の立場からすると、何ともさみしい思いになるのである。まずはそのままで味を確認し、好みで加えていくのが正しいのであって、最初っからまるでそのもの「無視」みたいなことは、食べ物とそれを作った人に失礼であり冒涜である。人の意見を聞かずに、自分のやり方を押し付けるのに等しい。
職業柄、一般家庭にお伺いすることが多いが、コンサートホールやライブハウスなどにも出かけていく。そこで、その場にあるピアノの調律をするのである。ホール調律は、最終的に演奏者にその仕上がりを確認してもらうことがほとんどで、後のトラブルが発生することはまずありえない。ライブハウスの場合は特定の演奏者のために調律するわけではないので、いちいち演奏者の確認を取るという作業はない。つまり普通に調律をすればそれで業務が完了したことになるわけで、その後どのように変化していこうと責任の範囲ではない。月に一回の調律というパターンが多い。やったばかりのピアノのコンディションは当然いいわけで、日を追うごとに調律は狂っていく運命にある。そんな時に演奏に来たピアニストは不運ではあるのだが、それは致し方ないことで、良い状態を保持しようと思ったら、毎日調律するしかない。あるピアニストに限って、その狂いが我慢できないのか、狂っている弦に必ず詰め物をしていく。自分は耳がいいんだぞ!こんな狂った音は許せないぞ!と言わんばかりにへんてこなフェルトを丸めたようなものを詰めて、その音の発音を止めていくのである。次に調律に行くとその詰め物が残っていて、あー、あいつまたやりやがったな・・・となるわけである。
ライブハウスのピアノはあんたの物かい?演奏者がピアノの内部に触れることはご法度である。自分の私物ならいざ知らず、人の持ち物のピアノにそういうことをするのは犯罪?である。少なくとも自分の演奏が終わったら、その怪しげな詰め物は外して持ち帰るべきである。あんたのやっている行為は言ってみれば「料理屋さんで手弁当を広げる」ようなもんだ。そこのピアノが気に入らないのであれば自分のピアノもってこい。あるいは自分で調律の手配をせー!
こんなやつが、いきなり醤油・胡椒・ドレッシングなのである。御呼ばれしていった先のご飯に文句をつけるのである。小さい奴だ!

かの有名なリヒテルさんや著名な演奏家たちは、ピアノには文句をつけない。その場にある楽器を最大限に生かす演奏をするのである。くるっている音はその卓越したテクニックで弾かないなんてこともできる。「弘法 筆を選ばず」であって、実力のない奴ほど道具にけちをつける。道具のせいにする。そして弄り回したりする。どうか、おしんこにいきなり醤油をかけるという行為はやめてもらいたいもんです。他人の家の味噌汁にケチをつけるもんじゃないぜ!

ひでー世の中になったもんだ

人間が引き起こす様々な悪が蔓延し、国内も世界もありとあらゆる問題が起こり、救いようのない世紀末状態になりつつある。そこでしたり顔で「ひでー世の中に・・・」となるわけですが、振り返ってみればどんな時代だってひでー状態だったわけで、ちょっと前の戦中戦後なんて―のはもっともひでー状態であった事は否定できない。歴史をさかのぼってみると、其々の時代にそれぞれのひでーことがあったわけで何も今の時代だけがひでーわけではない。それを例の「昔はよかった」感覚で現代を批判して先を憂慮する。身近な所で言うと、おっさんたちが自分たちの育った昭和の良いことばかりを懐かしんで、あのころが最高で、今は最悪みたいな言い方をする。実は私もその一人であったのだが、よくよく考えてみるとそういった感覚はその時代の人の感覚であって、それこそ時代は流れていくのであるから、スマホの「指とばし」?のように時代のシチュエイションが変わっていくのは当然なのである。それについていけない、認めたくない思いが現代を否定するのだ。そうしないと生きていけないのだ。否定することが唯一自分を肯定することになる。

いつまでも子どもだと思っていた息子に何かを否定され、意見されたりする。それをなkなか認めようとはしない。「黙れ」とか「お前に何が分かる」とか言って突っぱねたりする。何かその感覚によく似ている。分かっちゃいるけど認めたくない。認める・受け入れることが自分を否定するように思えるからだ。認めるということの難しさを感じる今日この頃、もちっと柔軟に素直にならなくちゃいかんなーと思う。、心身ともに固くなっていくそういう年齢になりました。

何と薄っぺらい

道路を走っておりますと当然、信号がありまして、最近の最新の信号機はLED。慣れないとあの色に違和感がある。そして、あの薄っペラさに驚く。というか、あれ本当に信号機なのか・・・。遠目には一枚の写真もしくは絵のように見える。従って、存在感が薄く発せられるエネルギーが感じられない。肝心な意図が伝わってこないのである。瞬間的に判断しなければならない道路状況において、あれはちょっとどういったもんか。そこに信号があって、強烈に情報を発信している。赤なら「とまれ」、青なら(緑か)すすめ!(正確に言うと注意して進んでも良いのだそうだ)。そういった強烈な発信力を持つべきものが、ああも薄っぺらいとなんかどうでもいいような無視したくなるような・・・。

以前、軽薄短小時代というのがあったが、更に事態は深刻になり、TVもパソコンもスマホもどんどんうすっぺらくなっていく。機能を損なうことなく、コンパクトそして薄くなっていくのはいいことなのかもしれない。が、何でもかんでも薄くなればいいという物ではなく、最近の自販機のドリンクの見本がプラスティック(表だけで裏がない)写真であったりして、質感が全く感じられない。見本なんだからわかりゃあいいじゃん?

表情のないうすっぺらな人間がどんどん増えているように思えますが、せめてそこだけは何とか守りたい。子供には質感のあるものをあえて見せ、与えております。たとえそれが重くて面倒くさいものでも! 
ロールピアノなるものが流行っているようですが、あれはピアノとは呼ばないでほしい。どこにピアノの質感があるのか・・・

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