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音気楽ブログ 社長ブログ

替え歌・大人のトトロ

あっるっこー、あっるっこー、わたしはげんきーー!何度聞いても勇気の出る歌ですねー!
それがこのように「ダメ大人ソング」に・・・・

アルコール、アルコール、私はげんきん(現金)
アルコールだいすきー!どんどん飲もう

日本酒、焼酎、ワインにビール
飲みすぎ食べすぎー、あげく二日酔い

それでも飲むぞーー懲りずに、今夜もーーーーーでした。

またまた、たくさん飲む機会の増える時期となりました。いろんな理由つけて飲みすぎ注意!!

何が何だか

何が正しくて何が間違っているのかわからない世の中になっちまった。いーや人間の歴史の中ではずーとそうだったのかもしれない。どんなおべんちゃらを垂れても、人間はやはり「私利私欲」のために生きているんだろうな。振り返ってみると自分も充分にそういう人だものねえ。恐れ多くも、天皇様も法皇様も人間である以上、例外ではないと思える。生きている以上「食欲」「性欲」「睡眠欲」の三欲から逃れることなんかできねえんです。別格は「神」のみ。
裁判員制度が導入されたのはいいけど、ここんところの判決は一体何なんだ!神も仏もないとはまさにこのことで、他人事ながらはらわたが煮えくり返る判決ばかり。法律とは何のためにあるのか。裁判官とはいったい何様のつもりなのか?神にでもなったつもりなのか?全能の神なのか?ぶっ殺してやりたいやつばかりだ。日本人はおとなしすぎる。それが災いして今や世界からバカにされていることもわからないで・・・・
ボーっと生きてんじゃねえよー!

何でもかんでもレンタル

必要な時にレンタルすればいいんです。車・ビデオ・CD・部屋・楽器・衣装などに始まり今や「人」まで簡単レンタル。恋人や妻までもが・・・・。愛車だとか愛用の楽器だとか言いながら、昔は物を大事にしてそれこそ愛情を注いだもんだ。そもそも物というものは手に入れる楽しみや醍醐味があって、いろいろ考えた末の選択によって手に入れることが多かった。それゆえ手に入れたものはワンエンドオンリーであって、末永く大事にしたものだった。同じものでも自分で選んだものは別格であり、愛情を注いだもんだ。
今の若者は所有欲がないという。自分だけの物に価値を見出さない。逆に所有することが面倒に感じるらしい。したがって、新車の販売が振るわない。家もマンションも賃貸が好まれる。しかも家具から食器から何でもそろっている物件に住みたがる。その日に契約してその日から暮らせる部屋ということらしい。住んで一つずつ家具をそろえたり、食器を選んだりということが面倒で興味がないらしい。これもしたがって、それぞれの物に対する愛情なんか育つわけがない。気が変わればさっさと出ていく。それこそ「身」一つで・・・・。
おそらく最近の恋愛とか結婚とかもそんなノリなのかもしれない。簡単に一緒になって、気まぐれに別れる。そこには悲も喜も何もないのであろう。簡単明瞭で大変結構。人間は所有欲のためにいろんな苦しみを持つわけで、その所有欲がなくなればこれほどさっぱりとした人生を送れるのであろう。
レンタルばんざーい!何でもかんでもレンタルレンタル。人生そのものがレンタルになっていくのであろう。飽きてしまったらどうすんだろ!
別の人生が簡単に借りられる時代がもうすぐそこまで来ているようなにおいがする。

進化とは

フィギアスケートのNHK杯ですかね、日本・ロシア・アメリカの選手がしのぎを削る女子。この度はロシアの16歳の美少女が優勝、日本のきひらは2位だったようですが、いったいどこまで進化していくのでしょうか。3回転が当たり前になりやがて4回転も当たり前になり、すると今度は5回転ですか・・・・。これを進化と呼んでいいのでしょうか?回数の問題なのか、高さの問題なのか、速さの問題なのか。もちろん芸術点も競われるわけですが、なんか技術点優先みたいな感じ。いかに芸術的であっても4回転ができなければ順位は上がらない。多少芸術的でなくても4回転が決まれば高得点となる。
スケート界に限ったことではなく、あらゆる世界でこの技術点が尊重されていく。例えばピアノのコンクールなんかもそういう傾向が強くなってきていて、速さ、正確さ、(音の)大きさなどが評価の対象になったりする。音の大きさに至っては全く愚かなことであって、どんだけホールに鳴り響くかが評価されたりする。メーカーも音量の大きなピアノを躍起になって作る。
そうなることによって、良い方向へ向かうのが進化なんだと思う。とんでもない方向へ向かって突き進んでいるように思える。果たしてそれは進化と呼べるのだろうか。

プロがばらす

簡単レシピをプロがばらすのが流行ってますなー。料理とかDIYとかなんとかかんとか、今までは長年の修行の上に習得されていたことが、今やたったの3分イや1分でできちゃうんですねー。コンピューターによる科学技術の異常異様な発達が、その「修行」の部分をあっという間に解決してくれる。前略、中略、後略でいきなり結果!。すごい。みんなプロ並みです。
板前になるのに5年も10年もつらい修行、なんていらないんです。ということは、今まで苦労して積み上げてきた人たちはどうなっちゃうんでしょう。バカを見た・・・ということになっちゃうんでしょうか。いいや、それ違いますと、私思ってました。結果だけで評価されるんだったら人生の意味がない!と、思っていました。コツコツとかじっととかずっととか一歩一歩とか、そういうことで素晴らしい結果につながると、思ってました。どうやらそちらのほうが間違い・・・。時間をかけて出しを取らなくても**調味料でいいんです。コトコトに込まなくてもチンでいいんです。そういうことをプロが楽しそうに言うんです。開き直りかとも思いましたが、実際にこにこして言い放つ。マジシャンのネタ晴らしのような感覚。プロでありながらそのプライドに自ら傷をつける。
最近「ピアノ」が売れません。ピアノを習いたい人が増えているのに、いわゆる「生ピアノ」が売れないんです。重い・うるさい・高い・黒い・・・・と、デメリットばかりの代表格になってしまった。電子ピアノが売れてます。電子はあくまでも電子で、その音はアコースティックではない!などといっても、だれも聞く耳持たない。仕方がないので、先生たちも「電子でもいいじゃないんですか・・・」となる。これも迎合イや妥協です。プロがどんどん妥協して自らの生きる道を狭めていく。自業自得かな・・・・。


客が気を遣う

客が気を遣っちゃう店がある。中華料理の店なんだけど、メニューを見ると親父のこだわりがうかがえる。おそらく30年近くやっているんだと思うのだが、店は汚い。不潔というのではなく改装とか全くしていないので、床がはがれていたりテーブルカバーがくすんでいたり、メニューが黄ばんでいたりあと、メニューを書き換えたりしてるんだけど、新しい紙使わないで古いメニューの上に✖つけて横に汚い字で訂正してあったり、おおよそ見かけに何も気遣いがない。奥さんと二人で店をやっているんだけど(中国人の結構愛想のよいおくさん)ここ1年程その奥さん見かけない。つまり厨房もホールもそのこだわり頑固おやじが一人でやっている。
遅い!いつまでたっても料理が出てこない。一番時間がかかった時は注文してから25分かかった。さすがに切れそうになったが、事情を知っているだけにじっと我慢の子でいた。昼時は当然混むからちょっと早めに行く。さすがに料理がスムーズに出てくる。が、そのあとがよろしくない。次から次へとお客が入ってきて様々な注文。3番目あたりからもう滞り始める。客に水を出す、注文を聞く、厨房に戻って料理始める。また客に水を・・・なんてえことを一人でやっているもんだから迅速にサーブすることなんかできっこない。また客が入ってくる。うわー!土方のおっちゃんが5人も入ってきたー・・・。おらは何とかの大盛と餃子、おらは何とか麺と半ライス、おらは麻婆豆腐とラーメン・・・・・・。オーダーはどんどんたまっていく。料理は全然出てこん。客がだんだんイライラしてくるのがわかる。空気がやーな雰囲気になっていく。私、レバニラ定食食べているんだけど、なんか落ち着かない。一人だけ食べてんの申し訳ないような気になってくる。租借もそこそこに飲み込むようにチョッパやで食して、早々に立ち去る。
このおやじ、愛想がないというかことば足らずというか、例えばちょっと時間かかりますとか言えばいいのに、そういうこと一切言わない。もくもくと厨房とホールを往復している。半分以上の客の眉間にしわが寄っている。とにかくこのおやじ、まじめというか正直というか、もしかしたらバカなのか・・・。料理にはこだわりがあって、手抜きしないし材料吟味しているし、おいしいし。だから行っちゃうんですけど、客あしらいが超へたくそで、こっちがハラハラしちゃうんです。そんなとこ行かなけりゃいいのに、なんか惹かれるものがある。時間を外して午後一時過ぎとかに行くようにしています。すると面白いもんで、おなじような客がその時間帯にちらほら入ってくる。常連さんで、この頑固おやじのペースがよくわかっている人たちで、なんかツーカーな感じ。時間がかかることなんか気にしてない雰囲気が漂って、しあわせな空間になるんです。

世の中とはよくしたもんで、頑固物を理解してさせてくれる人がいるんだなー。頑固物はつまりは一生懸命やっているわけで、やっぱ筋が通っているからなんでしょうね!それにしても、奥さん帰ってきてあげてよ!多分子供といっしょに逃げっちゃったんでしょ!あの親父だったらわかるような気もするけど・・・・。でもこんな客のために、帰ってきてよーーーー

奇跡

このようにブログを更新できることも、奇跡なんだ・・・。毎日毎日いろんな事件・事故・犯罪・災害が起こる。一歩外に出る、いや出なくたっていたるところに危険な落とし穴があって、注意深く避けることもあれば知らぬうちに回避できていることもある。この知らないうちにというのが恐ろしい。本当は紙一重でかわせていただけで、一歩間違えればやられていたなんてことのほうが多いのかもしれない。当たり前にあることやできることが実は当たり前ではない。必然ではなくほとんどが偶然なんだ。運がよかっただけなのかもしれない。よく運も実力のうちというが、しっかり生きていないと運にも恵まれない。それゆえ日々の生活を意識をもってすごさなければならないということになる。
果たしてそのような意識で生きてきたものだろうかと振り返ると、どうもそのような自覚がない。ということは、やはり相当「運」によって守られ救われてきたということになる。感謝!。そうそう運がついて回るとも思えない。そろそろ運も尽きるのではないかと不安になる。それゆえ今後は生かされていることに感謝し、しっかりと意識を目覚めさせながら生きていくことにする。
一寸先は闇、である。一分後イや一秒後に何が起こるのかもわからない。今をこの今を大切に過ごしたいものである。

均衡

バランスといってもいいのでしょうか。よく使われるのは左右のバランスという言い方。が、何も二つのことに限ったわけではなく、三つも四つもあるいは相当な量にのぼりことにも使われているはずである。なんかこの絵は全体のバランスが悪い・・・とか。
我が家は三つのバランスで成り立っている。私・妻・こどもの三つである。朝はこの三つがそろっていて、そろった状態で朝の行事が進行していく。やがて、子供が学校へ、私が仕事へ、妻が仕事へと三つのバランスが解き放たれていく。その後はそれぞれの時間割で過ごし、その時間割により夜の集合は朝同様にはいかない。時間がずれたり、そろうことがなかったり。あるいは誰かが欠けていたり。私と子供はほぼ毎晩同じ時間を過ごすのだが、夜の仕事のある妻は大分留守がちになる。いいか悪いかの問題ではなく、必然的にそうなってそれを了承してきたのだから、それはそれでいいのである。ところがたまさかそのバランスが崩れる。子供がじいちゃんのところに泊まりに行くことがあって、妻がたまさか夜の仕事がなくて、すると夜の部は私と妻だけになる。たまには二人っきりでいいんじゃなーい!って誰かに言われそうなのだが、落ち着かない。ぎこちないふるまいと妙によそよそしい会話。しかもその会話がなんだかつずかない。何事もない残念な夜を過ごして寝ざめも悪い。
こんな経験アーりませんか?バランスって大切だし、維持するにってむつかしい。それほど微妙なもんなのでしょうね・・・・。

昭和日和

朝、目ざめと同時にカーテンを開けると、ひさびさに陽光が差し込んできた。、風もなくやわらかなその光に思わずうれしい溜息。10月中旬よりほとんど太陽を拝むことがなく、連日の雨、曇り。日照時間が記録的に短いそうだ。そんな薄暗い感覚にならされてしまって、今日のようなお天気に恵まれると「生きててよかった」なんて大げさに思ったりする。
それにしても暖かい10月で、昨日、例年の3週間遅れで富士山「初冠雪」。ようやく冬が間違いなくやってくるのだなー なんて感じ。今朝はしばしその陽光に見とれていて、なんなか忘れていた感覚、そうだこの雰囲気はまさに昭和のあの頃の空気感。私がまだ少年だったころ・・・もう半世紀以上前のころのあのすがすがしい、夢と希望に満ち溢れていた?ころの空気感であることに気が付いた。TVをつけ朝食の準備をするほんの2~3分の間の幸せなひと時でありました。

なくならない

芥川龍之介の「人間失格」を改めて読んでいる。昭和42年・第12刷の本で紙はすでにセピア色、表紙もボロボロ。私が18さいのときに買った本なの49年=半世紀前。ページをめくっていくと、得体のしれないシミがあったりお菓子のかすのようなものが挟まっていたり、余白に「人間でいることに耐えられない・・・」などと落書きがあったり。あの時代の自分にフィードバックさせられる。当時は自分がまさかこんな年になろうとは予測もつかなかったに違いない。本は読み終わるころにはさらに劣化が進み、無残な姿になっているに違いない。

それはそれで時の移り変わりの中の経年変化であり、そうなると、そうなったものにはそうなった価値すらあるのである。紙・木材・木綿の布・皮などといった天然素材は、多かれ少なかれみなそのような運命をたどり、やがては消滅するのである。よく言う「土に帰る」のである。人間もそうであったはずなのだ。
ところが昨今の物という物が土に帰らない。いつまでも存在し続ける。代表格がプラスティック製品。海洋汚染の最大悪になっている。およそ作り出された物という物が劣化することなく(形こそ変わったりするが)存在し続ける。形こそあれ、役に立たないまま在り続ける。もれず、人間も同じこと。外見は若々しく美しく、しかし中身は何の役にも立たない。それどころか、周りのいい迷惑になり下がる。

ピアノのメンテナンスに行きました。製造されたのは55年前。あちらこちら傷んでおります。最小限の部品交換にとどめ、最低限の演奏に耐えられるように手を入れました。もちろん新品同様になんかなりません。激しい曲など対応できません。バラードとかをゆっくり静かに弾いていただく。70代の女性が嬉しそうに体を揺らして音を確かめていらっしゃいました。ピアノも人もそれなりに歳を重ねそれなりに老いていく。やがてはその形骸は消滅するのである。それが自然の成り行きである。

この「なくならない」社会でなくならないものや人がどんどん増えて、やがてはそういったもので地球全体があふれかえる。先進国が東南アジアの後進国にごみを輸出?しているらしいが、それもままならなくなってきているという。「なくならない」ことの恐怖。いずれたっぷりと味わうことになるのだろう。

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