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音気楽ブログ

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奇跡

このようにブログを更新できることも、奇跡なんだ・・・。毎日毎日いろんな事件・事故・犯罪・災害が起こる。一歩外に出る、いや出なくたっていたるところに危険な落とし穴があって、注意深く避けることもあれば知らぬうちに回避できていることもある。この知らないうちにというのが恐ろしい。本当は紙一重でかわせていただけで、一歩間違えればやられていたなんてことのほうが多いのかもしれない。当たり前にあることやできることが実は当たり前ではない。必然ではなくほとんどが偶然なんだ。運がよかっただけなのかもしれない。よく運も実力のうちというが、しっかり生きていないと運にも恵まれない。それゆえ日々の生活を意識をもってすごさなければならないということになる。
果たしてそのような意識で生きてきたものだろうかと振り返ると、どうもそのような自覚がない。ということは、やはり相当「運」によって守られ救われてきたということになる。感謝!。そうそう運がついて回るとも思えない。そろそろ運も尽きるのではないかと不安になる。それゆえ今後は生かされていることに感謝し、しっかりと意識を目覚めさせながら生きていくことにする。
一寸先は闇、である。一分後イや一秒後に何が起こるのかもわからない。今をこの今を大切に過ごしたいものである。

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均衡

バランスといってもいいのでしょうか。よく使われるのは左右のバランスという言い方。が、何も二つのことに限ったわけではなく、三つも四つもあるいは相当な量にのぼりことにも使われているはずである。なんかこの絵は全体のバランスが悪い・・・とか。
我が家は三つのバランスで成り立っている。私・妻・こどもの三つである。朝はこの三つがそろっていて、そろった状態で朝の行事が進行していく。やがて、子供が学校へ、私が仕事へ、妻が仕事へと三つのバランスが解き放たれていく。その後はそれぞれの時間割で過ごし、その時間割により夜の集合は朝同様にはいかない。時間がずれたり、そろうことがなかったり。あるいは誰かが欠けていたり。私と子供はほぼ毎晩同じ時間を過ごすのだが、夜の仕事のある妻は大分留守がちになる。いいか悪いかの問題ではなく、必然的にそうなってそれを了承してきたのだから、それはそれでいいのである。ところがたまさかそのバランスが崩れる。子供がじいちゃんのところに泊まりに行くことがあって、妻がたまさか夜の仕事がなくて、すると夜の部は私と妻だけになる。たまには二人っきりでいいんじゃなーい!って誰かに言われそうなのだが、落ち着かない。ぎこちないふるまいと妙によそよそしい会話。しかもその会話がなんだかつずかない。何事もない残念な夜を過ごして寝ざめも悪い。
こんな経験アーりませんか?バランスって大切だし、維持するにってむつかしい。それほど微妙なもんなのでしょうね・・・・。

昭和日和

朝、目ざめと同時にカーテンを開けると、ひさびさに陽光が差し込んできた。、風もなくやわらかなその光に思わずうれしい溜息。10月中旬よりほとんど太陽を拝むことがなく、連日の雨、曇り。日照時間が記録的に短いそうだ。そんな薄暗い感覚にならされてしまって、今日のようなお天気に恵まれると「生きててよかった」なんて大げさに思ったりする。
それにしても暖かい10月で、昨日、例年の3週間遅れで富士山「初冠雪」。ようやく冬が間違いなくやってくるのだなー なんて感じ。今朝はしばしその陽光に見とれていて、なんなか忘れていた感覚、そうだこの雰囲気はまさに昭和のあの頃の空気感。私がまだ少年だったころ・・・もう半世紀以上前のころのあのすがすがしい、夢と希望に満ち溢れていた?ころの空気感であることに気が付いた。TVをつけ朝食の準備をするほんの2~3分の間の幸せなひと時でありました。

なくならない

芥川龍之介の「人間失格」を改めて読んでいる。昭和42年・第12刷の本で紙はすでにセピア色、表紙もボロボロ。私が18さいのときに買った本なの49年=半世紀前。ページをめくっていくと、得体のしれないシミがあったりお菓子のかすのようなものが挟まっていたり、余白に「人間でいることに耐えられない・・・」などと落書きがあったり。あの時代の自分にフィードバックさせられる。当時は自分がまさかこんな年になろうとは予測もつかなかったに違いない。本は読み終わるころにはさらに劣化が進み、無残な姿になっているに違いない。

それはそれで時の移り変わりの中の経年変化であり、そうなると、そうなったものにはそうなった価値すらあるのである。紙・木材・木綿の布・皮などといった天然素材は、多かれ少なかれみなそのような運命をたどり、やがては消滅するのである。よく言う「土に帰る」のである。人間もそうであったはずなのだ。
ところが昨今の物という物が土に帰らない。いつまでも存在し続ける。代表格がプラスティック製品。海洋汚染の最大悪になっている。およそ作り出された物という物が劣化することなく(形こそ変わったりするが)存在し続ける。形こそあれ、役に立たないまま在り続ける。もれず、人間も同じこと。外見は若々しく美しく、しかし中身は何の役にも立たない。それどころか、周りのいい迷惑になり下がる。

ピアノのメンテナンスに行きました。製造されたのは55年前。あちらこちら傷んでおります。最小限の部品交換にとどめ、最低限の演奏に耐えられるように手を入れました。もちろん新品同様になんかなりません。激しい曲など対応できません。バラードとかをゆっくり静かに弾いていただく。70代の女性が嬉しそうに体を揺らして音を確かめていらっしゃいました。ピアノも人もそれなりに歳を重ねそれなりに老いていく。やがてはその形骸は消滅するのである。それが自然の成り行きである。

この「なくならない」社会でなくならないものや人がどんどん増えて、やがてはそういったもので地球全体があふれかえる。先進国が東南アジアの後進国にごみを輸出?しているらしいが、それもままならなくなってきているという。「なくならない」ことの恐怖。いずれたっぷりと味わうことになるのだろう。

・・・になっちゃうんです

なぜ、あおり運転が無くならないのか。またもや起こった「煽り」プラス「銃撃」。車に乗り込む。ドアを閉めた途端、外界とは遮断され、自分の世界が構築される。車種によって構築される世界が変わる。外車は外車の、ダンプはダンプの、ワンボックスはワンボックスの、大型は大型の・・・。
今までの人格が一変して、別な人格が現れる。強靭な囲いに守られて怖いものがなくなる。サングラス効果的なものも手伝って、もはや無敵のスーパーマンになりあがるのである。強大な機能・能力が備わってあり得ない自分になると、もうこれは始末に負えない。自分よりでかい車の運ちゃんと喧嘩するときは、先ず車から引きずりおろせ!とよく言ったもんで、案外運転席から降ろしてみると、大型の運ちゃんがすごくおとなしくなったりするんです。
ブランド物の高い洋服着てると「フン」みたいなこになっちゃったり、社長!と呼ばれただけで偉そうに歩いちゃったりなってえことも似たリ寄ったりで、人間ってまとう物によって性格変わっちゃうんですね。

それをうまく利用したのが「制服」であります。それをまとっただけでその気になっちゃう。警察官・医者・お坊さん・コックさん・パイロットさん・駅員さん・売り子さん・建設作業員さん・女子高校生さん・・・・・・・みんなみんな身にまとっただけで「それ」になっちゃうんです。

犯罪をなくすにはみんな制服を着て名札を付ければいいんです。煽り運転をなくすには、ボディーを透明にして運転席を低くして、ドライバーの顔も姿も外からよーく見えるようにすればいいんです。そして車に名札を付けるんです。そうすりゃみんな恥ずかしくって、むちゃくちゃなことできなくなるんですね。隠されてるから悪いことが平気でできるんです。全部表ざたにしましょう!

車社会の破滅

更に言わせてもらいますと、車社会はもはや崩壊破滅の一途をたどっているんです。さっきも言いましたように一本の路上にあまりにも色んなものが乗っかり過ぎて収拾がつかない。いっぽ間違えれば大事故になる。その一歩がいつでもどこにでもあるんです。交通法規という物がありまして、一応それにのっとって皆さん運転しているようですが、それはあくまでも原則であって実際の路上では原則通りにいかない。そこで臨機応変が要求されるわけですが、技能・能力・経験などでその対応力は違うわけで、それも混乱をもたらす大きな原因である。しかもそこにそれぞれの「体調」「精神状態」などが加わっていくと、これはもうどうにもならないのである。

あの忌まわしい「初心者マーク」「高齢者マーク」はいったい何のために作られたのか。ふざけんじゃねー!初心者だろうが高齢者だろうが、路上に出れば皆同じでないんかい。そうやって甘やかすから事故が起きるんじゃないのかい。何回も言うけど、路上は戦場です。そう言う気構えで行かなければいかないのです。それをなんですか?初心者には優しくしてあげましょうだ?ふざけんじゃねーーーーーー。

もう自動運転化を進めるしかない。自分で運転したいレーンと自動運転レーンを分けるしかない。何ともつまらない世の中になったもんだ。「便利」ということは言いかえれば「つまらない」ということで、そうなったら免許返納してくれてやる!

安易な気持ちで運転しているあんた!路上に出ないでくれ!遊園地でゴーカートにでも乗っていてくれ!

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