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目くそ鼻くそを・・・

ご無沙汰です。いきなりこ汚い表題で失礼申し上げます。 この「目くそ鼻くそを・・・」とはみなさんご存じの通りでございまして、まあ程度の低い次元で、相手のことをバカにするという、なんともみっともない情けない状況ではあります。年齢を重ねますとこの傾向が進行いたしまして、超くだらないことで相手と、あるいは社会と張り合うことが多くなっていくのであります。TVに向かっていちゃもんつけるなんてえのも年取った証拠・・・。 
で、その「笑う」がねじ曲がっていくと「ほめる・おだてる」とおなぐさみになっていくわけで、こりゃあ始末に負えない。目くそが鼻くそを誉める、おだてる。いやーなんとも不気味。誰もほめてくれないから「目くそ」が「鼻くそ」を誉める。誉めたくないのにお慰みで誉める。こういう状況にはなりたくない。いつまでも相手をバカにして、おいらは突っ張って生きていくんでい!目くそで結構、鼻くそで結構。くそだってそれなりに意味・意義・価値があるんだい!

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また、元に戻れたら

元に戻るなんてえことはありません。このご時世、「元の平和な世の中に戻ることを祈って・・・」なんてえ言い方をあちこちで耳にしますが、時間はとどまることなくもちろん戻ることなんてありえない。あの頃に戻れたら・・・なんてえのも同じことで、あんたが若返るなんてえことはあり得ないんです。今がだめだから、神が怒って「変えろ、変われ」とおっしゃっているわけで、元に戻ってはいけないのである。」先を見て歩を進めていくしかない。後戻りをしてはいけない、できないのが人生なんです。
すべての物には寿命があって、やがて地球も太陽も滅亡・消滅する時が来る。自分に与えられたほんのちょっとの時間を、一生懸命、前を向いて進んでいくしかないのである。それが人生ってえものなのさ!元に戻って・・・なんてえのは人間のエゴ以外の何物でもない!

本音と建て前

完璧・最高・至高・極上・プレミアム・スペシャル・あなただけのという言葉に飾られて、商品やらサービスが押し寄せてくる。誰のために何のためになのか、必要なことなのか。極めつけを追い求めればきりがない。あらゆる科学技術の発達で、それに伴ってそれらが具現化されていくことは容易なのである。まさに不可能という文字はあり得ない世の中になった。夢のような素晴らしい展開なのかもしれない。が反面、同党の相当な犠牲が伴うのである。その犠牲の上に成り立っていることを忘れてはおけない。

自分とまじめに

どうも日本人は自分とちゃんと向き合っていないような感じがする。特に昭和の中期ころからその傾向が強くなってきたように思いえる。もともと日本人は自分に対して正直だったはずなのだが、高度経済成長に乗っかって人間性に変化が訪れ、差別・区別・見栄・虚勢・競争などの意識が知らず知らずのうちに当たり前になってしまった感がある。遠く江戸時代は日本の文化が最も栄えた時代で、それぞれが立場をわきまえそれぞれに誇りをもって生きていたように思える。そうだ、現代人にはこの「誇り」が欠落しているのだ。プライドという表現で自分自身を大いに勘違いしてる輩のなんと多いことか。確かにプライドという言葉を和訳すると「誇り」と言ことになるのだが、そのプライドという表現の使い方がとてもおかしいのである。イメージとしては、金持ちで高学歴で一流でベンツかBMで奥さんは美人で・・・・てなところか。
確かに世界の大国と肩を並べるような位置になったことは間違いないのだが、物質文化だけが先行し、いわゆる精神文化がついてきていないのである。むしろ後退しているようにも思える。以前にも述べてが、技術点ばかりが先行し芸術点が追いついていかない。芸術点とは何かということがわかっていないようにも思える。
日本人はシャイな民族だとよく言われる。シャイ=恥ずかしがりや・照れ屋・自己表現が下手。良い意味で解釈してもらえればいいのだが、なかなかそうとも言えず、何を考えているのかわからんとかなんで自分を卑下するのか、誠に不思議な民族と思われていることは否定できないし、現在に至っても根本は変わっていないように思える。
自己主張がちゃんとできない民族。それはつまるところ、自分とまじめに付き合っていないからであって、自分自身に対してもまあまあなあなあでいるからなんだと思う。よく外人が強烈に自己主張をしている場面を見かけるが、彼らは自分が信じたことはあくまでも曲げることがない。つまり自分を信じている、まじめに付き合っているからなのである。それゆえ、彼らは意見というものを実にはっきりと述べる。Thinkの解釈が「考える」であって「おもう」ではない。そう考える!のではなく、日本人はそう思いますう・・・なのである。
3歳くらいまではストレート、ダイレクトであったはずなのに成長するにしたがって遠回しになっていく。嘘つきになっていくのである。自分とまじめに付き合っている人は正直で自分をごまかさない。それゆえ誤解されることも多いのだが、やがて彼らは「本物」になっていくのである。自分をごまかして70年近く生きてきた自分が情けなくもあり、そうとばかりも言ってられない、何とかしようともがいている今日この頃の自分です。

小社会がもたらす悪循環

虐待による「子」殺しのニュースをよく耳にする。家庭内暴力(DV)がコロナの蔓延によって、ますますふえていることは確かである。ほとんどが狭い家の中、いわゆる密室の中で起こっているわけで、小さな社会がもたらす人間の錯覚による悲劇である。その錯覚とは何か。家庭という単位は相当におそらく一番小さな社会と考えていいと思う。父親・母親・こども一人という3人家族という構成がかなり多いように思う。あるいは増えつつあるのが、シングルマザーと子供一人。子供を殺してしまう原因のトップは、経済困窮による絶望感。2番目は子供の存在の否定=泣き声がうるさい・なつかない・めんどうくさいなどであるか。母親が留守中に父親が起こす、あるいは孤立した母親が思い余って子を殺める。
どちらも、判断・決断をするのは一人の大人?であり、何の抵抗もできない子が一方的に犠牲になるのである。感情の赴くままに一人で決断されたことはほとんどが最悪の結果を招くことになる。抑えてくれる人がいないし、止めてくれる人もいな。そもそもそこへ至るまでにその人を受け入れて受け止めてくれる人がいないのである。そこからうまれる感情こそが錯覚なのである。自分が正しいと思い込む。自分が法律で自分が大様なのである。
核家族化の産んだ悲劇。他人の入り込むすきのないこの小さな社会。誰に気ずかれることもなく、誤った判断で子が犠牲になっていくのである。

極めるVS極まる

どっちも同じようだが、極めるとは「これ以上ないという状態に至る」ということで、よい意味でつかわれる。極まるとは「これ以上は・・・」と同じ解釈ではあるが、悪い意味でつかわれることが多い。例えば「不都合極まるじゃないか」「失礼極まる話」みたいに使われるのである。
職人が一つの技術を極める、なんてえのはとても感動的なことで、どんな世界でもこの「極める」ということは素晴らしいことに違いない。もちろん誰でもが「極める」ことができるわけではなく、才能と計り知れない努力によって成し遂げられることである。
残念なことに最近の世の中、この「極まる」といいたくなることが目に付いてしょうがない。どこぞの大統領の失言・行動を筆頭に、見本手本にならなければならない人たちが、そろって極まっている。政治家・社長・医者・弁護士・学者・警察官・先生・親・先輩・・・・子供たちがその成長過程において手本となるべき立場の人が、多かれ少なかれその人生において勝手に極まっている。極まることが当然の権利だと思っているように見える。それぞれの立場を(自分に都合よく)放棄しているのである。これはもはや開き直りとしか言いようがない。あるいは無責任「極まる」のである。そりゃあそうしたほうが楽だもんなあ・・・。
なんか世の中みんなその「楽だもんなあ」の方向へ流れて行って、最後に誰が責任取るのだろう。そういった「つけ」をすべて次世代の子供たちが払うことになりかねない世の中。子供の教育より大人の学校が必要なんだなあ。社会人1年生からやり直しだ!

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